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[ヒロシマドキュメント 1946年] 5月 流川教会 焼け跡で礼拝

 1946年5月。広島市上流川町(現中区)の広島流川教会が、焼け跡で礼拝を始めた。原爆でわずかに残った建物の外壁を前に、教会員たちが集った。

 教会によると、焼け跡で礼拝を守る▽礼拝後には全員で焼け跡を掃除する▽地域ごとに家庭集会を開く―などを申し合わせたという。広島電気学校(現広島国際学院高)の生徒と、鶴虎太郎校長が焼けたれんがで祭壇を築いた。

 爆心地から約900メートルの教会は、建物の外壁を残して焼失。被爆後は、谷本清牧師が借りていた牛田国民学校(現東区の牛田小)裏の教会員宅が事務所となっていた。春になり、教会員たち数人が焼け跡に行き、ざんげの祈りをしたのが跡地で礼拝を始めるきっかけになったといい、谷本牧師は「再起の立脚点」(76年の著書)と振り返っている。

 被爆時に広島女子商業学校(現広島翔洋高)1年生だった松原美代子さん(2018年に85歳で死去)も教会に通った一人。鶴見町(現中区)での建物疎開作業中に閃光(せんこう)を浴び、全身の3割にやけどを負っていた。

 原爆で心身に傷を負った者同士が集まっており、「聖書の話を聞き、みんなと一緒に讃美歌を歌い、その安らかな雰囲気に心の安らぎを得たのです」(88年刊の証言集「原爆被爆者は訴える」)。卒業後は、谷本牧師たちが設立した目の見えない子どもたちの養育施設で住み込みで働いた。

 教会は52年に再建。70年末には中区上幟町の現在地に新築移転する。焼け跡に残った樹木で作られた「被爆十字架」は今も礼拝堂に掲げられている。(山本真帆)

(2025年5月7日朝刊掲載)

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