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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1981年2月25日 ローマ教皇の初訪問

「戦争は人間のしわざ」

 1981年2月25日。来日中のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、広島市中区の平和記念公園を訪れた。小雪が舞う寒空の下、集まった約2万5千人の市民やカトリック信者を前に「戦争は人間のしわざです」から始まる「平和アピール」を発した。

惨状説明に涙

 「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことだ、という強い確信を持っている」と広島訪問を望んだ教皇。原爆慰霊碑に献花し、約1分間、ひざまずいて祈りをささげた。荒木武市長が被爆時の惨状を説明すると、涙を浮かべた。

 アピールの冒頭は練習を重ねたという日本語で読み上げた。9カ国語を使い分け、「この地で始まった人間の苦しみはまだ終わっていません」「広島を考えることは平和に対しての責任をとることです」と訴え、各国の指導者に軍縮と全ての核兵器の破棄を求めた。

 キリスト教最大教派のローマ・カトリック教会の頂点に立つ指導者で、地上でのキリストの代理人と位置付けられる教皇。その広島訪問は世界へ打電され、市民に感銘を与えた。

 当時西区に住んでいた竹中千秋さん(77)=三原市=は友人に誘われて平和記念公園で見届けた。「教皇が広島に来ることに重要な意味があると思い、見逃してはいけないと思った。特別な瞬間に立ち会えました」

 原爆資料館では、14歳で被爆した高橋昭博館長が教皇を案内した。世界平和への尽力を求めると、ケロイドが残る右手を握りしめられた。「アピールの一語一語は、今でも私の中で新鮮に生き続けている」と95年刊の自著「ヒロシマ いのちの伝言」につづっている。

被爆者のレイ

 被爆者の藤枝良枝さん(2001年に83歳で死去)は教皇へ贈るため折り鶴のレイを手作りした。「原爆死没者に対する供養ができた。疲れやすいため、千羽も折れなかったが、ヒロシマの心を伝えるのは生き残った私の務め、と思いがんばった」(81年2月23日付本紙)と涙ぐみながら語っている。

 27歳の時に横川駅(現西区)付近で被爆。空鞘町(現中区)の自宅で被爆死した母と幼子2人の遺体を自ら焼いた。「天高く上がった黒い煙。涙がぼとぼとと流れ落ちる。それは生涯を通じ最も熱く、悲しい涙だった」(86年刊「手記・被爆者たちの40年」収録)。戦後は基町(現中区)のバラックで長く暮らし、難聴を患いながら戦後生まれの子どもを育て上げた。

 教皇の訪問後には「平和の巡礼者の足跡を記念に残したい」と碑の建立へ運動を始めた。呼応した医師でワールド・フレンドシップ・センターの原田東岷(とうみん)理事長たちが建立委員会を設けて建設費を募ると、藤枝さんも大切にしていた貴金属類などを売って寄付した。

 イタリア産の大理石を使い、世界の調和と安定、共存を表した高さ3メートル、幅1・8メートルの碑が83年に原爆資料館のロビーに設置された。碑文にはアピールの一節が日本語と英語で刻まれ、今も国内外からの来館者に伝えている。(山下美波)

(2025年5月6日朝刊掲載)

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