[戦後80年 芸南賀茂] 広空襲の犠牲者を追悼 工僚神社で慰霊祭
25年5月6日
呉市広地区にあった広海軍工廠(こうしょう)や第11海軍航空廠で働き、戦争末期の空襲などで亡くなった人たちの慰霊祭が5日、広両谷の工僚神社であった。同地区で最大規模の空襲があった1945年5月5日から80年となるのに合わせ、地元住民たち約30人が参列し犠牲者を追悼した。
主催する広郷土史研究会の野間秀樹会長(62)が「今もウクライナやガザで悲劇は続く。地元の戦災の記憶を継承し、歴史を学んで平和な世界を築くために考え続けたい」とあいさつ。参列者たちが玉串をささげた。
広高等女学校から広工廠に学徒動員された福岡都喜子さん(96)=同市川尻町=は「防空壕(ごう)の外で多くの人が亡くなっていた。80年たっても空襲の恐怖は忘れられない」と目を潤ませた。
広地区の空襲は45年3~7月にあり、工僚神社は翌46年に建立された。遺族の高齢化などで、2000年を最後に慰霊祭が途絶えたが、住民有志が18年に復活させた。同神社は犠牲者たち411人に加え、国内外で戦死した軍人たち942人も合祀(ごうし)している。(栾暁雨)
(2025年5月6日朝刊掲載)
主催する広郷土史研究会の野間秀樹会長(62)が「今もウクライナやガザで悲劇は続く。地元の戦災の記憶を継承し、歴史を学んで平和な世界を築くために考え続けたい」とあいさつ。参列者たちが玉串をささげた。
広高等女学校から広工廠に学徒動員された福岡都喜子さん(96)=同市川尻町=は「防空壕(ごう)の外で多くの人が亡くなっていた。80年たっても空襲の恐怖は忘れられない」と目を潤ませた。
広地区の空襲は45年3~7月にあり、工僚神社は翌46年に建立された。遺族の高齢化などで、2000年を最後に慰霊祭が途絶えたが、住民有志が18年に復活させた。同神社は犠牲者たち411人に加え、国内外で戦死した軍人たち942人も合祀(ごうし)している。(栾暁雨)
(2025年5月6日朝刊掲載)