[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1980年12月11日 基本懇の答申
25年5月5日
「受忍論」被爆者ら怒り
1980年12月11日。被爆者たちに強い失望と怒りが広がった。矛先は「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)が園田直厚相に答申した意見書。戦争被害の「受忍論」を掲げ、被爆死への弔慰金や遺族年金の実現を退ける内容だった。
国による救済が生存被爆者の放射線被害にとどまる中、被爆者運動は犠牲者も対象にした「国家補償」を求めていた。「原爆死没者に日を当てて欲しいということは、生き残った被爆者が死んだ人に済まないではないかという気持ちなんですよ」(12日付本紙記事)。意見書を読んだ広島県被団協の森滝市郎理事長は、無念を語った。
基本懇は79年6月、厚相の私的諮問機関として始まった。座長の茅誠司・東京大名誉教授(物理学)、田中二郎・元最高裁判事たち7人が委員を務め、非公開で計14回にわたって議論した。
政府が警戒感
きっかけは、韓国人被爆者の孫振斗(ソン・ジンドウ)さんが福岡県に被爆者健康手帳の交付を求め勝訴した78年3月の最高裁判決だ。原爆医療法を巡り、戦争を始めた国の「国家補償的配慮が制度の根底にある」として手帳の交付を認めた。国の方針に従い、県は被爆者援護を「社会保障」の枠組みと訴えていた。
判決の翌月には衆院社会労働委員会が「国家補償の精神に基づく被爆者の援護対策」への要望が強まっているとし、被爆者特別措置法とともに2法を再検討するよう決議した。こうした流れに、政府は警戒感を持っていた。原爆被害の救済を、国が戦争をしたために生じた損害への補償と位置づけると、ほかの空襲被害などの補償問題に広がるのは必至だからだ。
後に開示された基本懇の議事録によると、初会合で当時の橋本龍太郎厚相が「特殊兵器の原爆によって生命や健康に被害を残したことを国家補償の対象にすると、一般の戦災犠牲者にも広がりはしないかと大変恐れていた」と説明している。
国の考えを打破しようと、79年12月に東京都内であった委員による聞き取りで、森滝理事長は国家補償としての援護を求めた。80年4月には、広島市での「被爆者事情聴取」で、親を失った原爆孤児たち10人が思いをぶつけた。
「犬死にになる」
当初は被爆死への補償に理解を示す委員もいたが、答申が近づくにつれ厚生省側の介入が目立つようになった。「国家補償が独り歩きをしないようにいろいろ歯止めをしていただきたいという話をした」(80年11月の会合の担当課長の発言)
意見書は最終的に、戦時下で国民が生命や身体に犠牲を余儀なくされたとしても「すべての国民がひとしく受忍しなければならない」との「受忍論」を明記。一方で原爆放射線の影響に関し「一般の戦災による被害と比べ、際立った特殊性」を指摘し、ほかの戦争被害者への施策に比べ「著しい不均衡」が生じない範囲での対策を求めた。
これらを進める基本理念は「広い意味における国家補償の見地」と表され、多量の放射線を受けたと推定される近距離被爆者への対策の必要性を強調した。ただ、救済範囲を生存被爆者の放射線被害とする点は従来の施策の追認に等しかった。
日本被団協は答申公表の当日、国の戦争責任を回避し、原爆批判が欠落しているとの「見解」を公表。81年1月6日付被団協新聞では「死んだ人が犬死にになる」と猛反発した。ほかの戦争被害への補償の拡大も目指し、国への訴えを続けていく。(下高充生)
(2025年5月5朝刊掲載)