×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1980年1月 「空白の学籍簿」発行

被爆死 後輩が実態記録

 1980年1月。広島市の翠町中(現南区)の生徒会が、原爆で犠牲になった前身の第三国民学校の生徒や教員の被爆死の実態をたどる冊子「空白の学籍簿」を発行した。どこでいつ亡くなったかすら分からない先輩たちの最期を刻もうと遺族を訪ね歩き、生きた証しとなる遺影も載せた。

 取り組みは77年度、教頭の坪井直(すなお)さん(2021年に96歳で死去)の呼びかけで始まった。「私も生き残った者の務めだという気持ちで、聞き取りに同行した」(13年1月29日付本紙)。生前、活動に込めた思いを話している。

 広島工業専門学校(現広島大工学部)在学中の20歳の時、爆心地から約1・2キロの富士見町(現中区)で被爆。大やけどを負い一時は意識を失う中、一命を取り留める。戦後に教員になると、自己紹介や授業で被爆体験を生徒に話し、「ピカドン先生」と呼ばれた。

人数にも疑問●●●●

 呼びかけのきっかけは翠町中に残る「戦災死児童学籍簿」。45年8月6日、第三国民学校の生徒は市中心部の雑魚場町(現中区)に建物疎開作業に動員されるなどし、犠牲者103人の名前が記録されていた。

 ただ、空白部分が多く人数にも疑問があった。「広島原爆戦災誌」(71年刊)によれば、生徒の「即死者」は152人。被爆翌年建立の校庭の慰霊塔には生徒・教員計210人と刻まれていた。

 教員や生徒たちは心を痛め、「犠牲者数を明らかにしたいということと被爆状況を記録する運動」(「空白の学籍簿」)に駆り立てられた。班をつくり、夏休みに町内会長たちを訪ねて関係者を捜し回った。遺族が見つかると、会って証言を記録した。

 体調不良を訴えたわが子を無理に作業に行かせた母親、「遺骨さえも見つかっておりません」と語る父親…。聞き取りをした生徒の一人で、今は中広中(西区)の校長を務める渡辺陽一さん(61)は「三十数年たっても残り続ける遺族の苦しみは、中学生ながら心を揺さぶられた」と振り返る。

遺族の声掲載

 広島平和教育研究所などが75年に広島県内の児童、生徒計2340人を対象にした意識調査で、原爆について学校で「習った」と答えたのは56・5%。広島への原爆投下日を正確に答えられたのは58・5%だった。60年代後半に比べ改善しつつあったが、平和教育の必要性が指摘されていた。

 76年に翠町中で新任教員になった松井久治さん(71)=南区=は、坪井さんの狙いをこう感じ取った。「遺族捜しだけが目的ではなく、平和は自分たちで動いてつかまないといけないという、教科書だけでは得られない学びを伝えたかったのでは」

 冊子には新たな確認分を含め生徒163人と教員6人の死没者名簿を載せた。うち生徒30人余と教員2人は1人ずつ被爆死の実態と遺族の声を載せ、朝鮮半島出身の家族に生まれた少女もいた。坪井さんは「二重、三重の苦しみを味わっている。日本人だけでなく彼らが生きた証しも残す必要があると思った」。

 坪井さんは86年の退職後に被爆者運動に関わり、広島県被団協理事長や日本被団協代表委員を務め、「ヒロシマの顔」になる。翠町中は「空白の学籍簿」に改訂を加えながら、演劇部の生徒が全校放送で読み上げるなど、平和学習に使い続けている。(下高充生)

(2025年5月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ