[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1983年11月 レーガン氏の来日
25年5月8日
広島訪問 市民呼びかけ
1983年11月9日。広島の市民有志が広島市中区の原爆ドーム前で横断幕を掲げた。「PLEASE VISIT HIROSHIMA(ぜひ広島へ)」。この日、原爆投下国で核超大国の米国のレーガン大統領が来日した。
市民は「レーガンを広島に」運動事務局のメンバーたち。代表で広島YMCA総主事の相原和光さん(2006年死去)は「ぜひ時間を割いて広島で被爆の実相を胸に刻むべきだ」と訴え、賛同する市内の米国人たちも運動に参加していた。
募金活動展開
80年代前半、米ソの緊張が高まり、欧州では核ミサイル配備への反発や核戦争の危機感から「ノー・ユーロシマ」(欧州を広島のような核の戦場にするな)と訴える市民の反核運動が広がっていた。「レーガンを広島に」運動は、「核戦争防止の誓い」として、現職の米大統領による広島初訪問の実現を目指した。
来日に先立ち、米紙で訪問を呼びかけようと募金活動を展開。約1カ月前の83年10月10日付ワシントン・ポスト紙に、原爆ドームのシルエットとともに「レーガン大統領、どうぞ広島へ」と英文で書いた全面広告を載せた。
また、訪問の要請文を在日米大使館に出した。81年に広島市を訪れたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の平和アピールの一節を引用して「広島を考えることは核戦争を拒否すること」と記し、大使館からは「必ず本国に送る」と返答を得た。
レーガン氏は11月12日まで日本に滞在。中曽根康弘首相との首脳会談などに臨んだが、「日程の都合」で広島は訪れなかった。
ただ、11日の国会演説では「私たちの願いは、中曽根首相はじめ日本全体が共有しているもの」と前置きし、こう述べた。「核戦争に勝者はありえず、核戦争は決して戦ってはならない」「私たちの夢は、地球上から核兵器が廃絶される日を見ることだ」
翌年の84年5月には、企業の招きで来日したカーター前大統領が広島市を訪問。原爆慰霊碑に献花後、「壊滅的な惨禍を思うと極めて厳粛な気持ちになる。この教訓は決して忘れてはならない」と語った。12月には米軍備管理軍縮局のエメリー局次長が市内を訪れ、原爆資料館を見学した。
訪米団を派遣
日本の市民は、働きかけを続けた。日本被団協は85年6月、長崎で被爆した山口仙二さんを団長とする訪米団を派遣。レーガン氏に対して核兵器廃絶への努力や広島・長崎の訪問を求める要請書を米国務省に提出した。
5カ月後の11月。欧州でも市民の反核運動が続く中、スイス・ジュネーブでレーガン氏とソ連のゴルバチョフ共産党書記長の首脳会談が開かれた。「核戦争は決して戦ってはならない」とする共同声明を発し、核軍縮交渉が加速する。米ソは87年12月、特定分野の核戦力を全廃する史上初の条約、中距離核戦力(INF)廃棄条約に調印した。
日本被団協の初代代表委員を務めた森滝市郎さんは当時86歳。81年には渡欧して反核集会で演説しており、米ソの合意に「民衆の運動は挫折の繰り返しではない、との自信を持つことができた」(87年11月25日付本紙)。INF廃棄を評価するとともにすべての核兵器廃絶を求める手紙をレーガン氏とゴルバチョフ氏に宛てて送った。(編集委員・水川恭輔)
(2025年5月8日朝刊掲載)