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連載・特集

ドームの街 猿楽町 <1> 爆心の「親子」 100歳養母に寄り添って

 待ち合わせ場所に現れた男性は、大阪弁がすっかり板に付いていた。「学校を出てやから、こっちの方が長くなりましたなぁ」。ドーム球場そばのファミリーレストランで、携えた紙袋からアルバムと一家の戸籍謄本を取り出した。四人の名前の欄には同じ記載が並んでいた。

家族と離れ学童疎開

 「昭和二十年八月六日午前八時三十分、広島市猿楽町八十四番地ニ於(おい)テ死亡」  父定男(40)、母トモ(36)、二男正博(7つ)、生後わずか五十九日の長女千津留。当時十一歳のいがぐり頭の少年が残った。

 その原田憲一さん(63)は、ドーム球場近くの下町、大阪市大正区に住む。「私は神杉にいたんですわ」。腹をくくった表情で、半ば問わず語りに話した。

 顧みれば、「本土決戦」という勇ましくも空疎なスローガンが叫ばれた一九四五年四月、広島市内の国民学校で学童疎開が始まる。原田少年が通った袋町小でも、男女九十六人が広島県北の双三郡神杉村(現・三次市)の寺に分宿して、地元の学校へ通った。

 「ヨモギも競うように食べてましたわ」。苦笑しながら、新たに一枚の茶封筒を取り出した。「原田モーターサービス/ダットサン小型自動車修理/小型木炭瓦斯(がす)発生機」と印刷してあった。遺品ともいえる一家の封筒に目を凝らして続ける。

 「おやじはあの時代でも軍関係の仕事で忙しく、おふくろはどこかで都合したカステラを持って神杉に訪ねてくれた。あれが、妹の顔を見た最初で最後の時やったかなぁ…」

 原爆投下は、腹をすかしたままの神杉村で聞いた。日ごと伝わる広島壊滅の知らせに、「あれでも…」と張り裂けんばかりの思いはかき消せなかった。迎えに来た母の姉に連れられて広島駅に降り立つまでは。「ほんまに、あぁ、と思いましたわ。似島まで一望できるんやから」

一緒に廃虚の中歩く

 伯母夫婦はやはり猿楽町で暮らし、郊外に疎開していた。自宅跡には遺骨は二人分しか見つからず、原田少年も防空ごうを掘った。「ひょっとしたら…」。いちるの希望が再び芽生え、伯母と一緒に広島湾に浮かぶ似島や各救護所を回った。すえたにおいとハエの群れ。それが原田さんの原爆の記憶だ。

 「孤児になったかて、実の親とかわらないくらいようしてもらいました」。被爆後、育ての親になった伯母夫婦を「おやじ、おふくろ」と、さりげなく呼んだ。県立広島工業高を卒業し、縁あって大阪に出た。

 物を作る仕事が性に合ったという。大正区内の鉄工所を勤め上げ、一男二女を育てた。定年を機に独立し、磨いた腕を生かして三年前から鉄の裁断機の仲介、維持修理をする。

 原田さんが不在だった折、妻の千仁さん(61)は電話口でこう話した。「支え合って生きて来た二人を見ていると、はたから入り込めないほどです」

 原田さんは、広島で一人暮らしをしていた母の姉ヤチヨさんを引き取っていた。自宅そばに家も買い、身の回りの世話を続ける。体調を崩して入院すると毎日のように見舞う。

 廃虚の中で、帰らぬ人を共に捜し歩いた、もう一人の母はこの五月に満百歳を迎えていた。

 原爆ドームだけを残して消えた街、「広島市猿楽町」。ゆかりの人たちの「生と死」の軌跡を追う。(報道部・西本雅実)

(1997年7月25日朝刊掲載)

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