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連載・特集

ドームの街 猿楽町 <2> 記憶の絵図 追悼込め鉛筆でたどる

 原爆ドームの前身、広島県産業奨励館の周りは、格子戸の家屋が軒を連ね、屋根はここかしこに物干し場が見える。元安橋東詰めの菓子店には「一粒三百米」のグリコの大きな看板。在りし日の街並みが、5Bの鉛筆で鳥瞰(ちょうかん)から精密に再現されていた。

 広島市西区井口四丁目、森冨茂雄さん(68)が記憶を呼び覚まして描いた絵図は、その時代を知らない者にも甘酸っぱい懐かしさをかき立てる。「幼いころから屋根伝いに駆け回り、日が暮れても遊んでばかりいましたから」。眼鏡越しに、ひとみを和ませながら「私なりの供養で街をよみがえらせたかったんです」。

胸躍らせた世界再現

 親の代から「常友」の屋号で寝具店を営んだ。店は元安橋の東そば「細工町四十九番地」にあり、住まいは「猿楽町四十五番地」。どちらも産業奨励館から二百メートルと離れていなかった。指呼の間に、子ども時分は胸躍る世界があった。

 家から飛び出せば目の前は元安川。「夏はドーム前の雁(がん)木に、島から帆船が横付けしてスイカを陸揚げしていた。落ちて割れるのが楽しみでした」。泳ぎ疲れて甲羅干しする子どもたちのおやつになった。

 螺旋(らせん)階段を持つ奨励館も遊び場であり、チャプリンやバスター・キートンの映画上映もあった。電車通りを渡れば広大な西練兵場。護国神社の境内では秋には相撲興行があり、近所の子ならではの顔パスも利いた。「幽霊小路」と名付けた寺沿いの路地、鶏を追い回した島病院の庭…。原爆は、その島病院の上空約五百八十メートルでさく裂した。

 原爆投下の五カ月前、住まいは「鳥屋町十九番地」(現・中区大手町二丁目)に移っていたが、やはり爆心地五百メートル内。父修一(42)、祖母トメ(72)、弟康雄(12)と保(10)、同居していた亡き母のめい(19)も死んだ。

 市立造船工業学校(現・市商業高)三年の森冨さんは、動員されていた西区の三菱己斐分工場で被爆した。崩れ落ちて来た木造の工場からはい出すと、燃え盛る火の手を突いて自宅へ向かった。

 「猿楽町の岡本味カイ(みそ)のお姉さんが全身やけどで護国神社の防空ごうに、僕らをかわいがってくれた岩崎さんちの『坊っちゃん』も商工会議所の階段前でうずくまっていた」

 口べた。それで、被爆体験を人前で話すのは、求められても避けてきたと言いながら、一気呵(か)成に話した。自宅跡で見つけた骨はだれか識別できず、同じ造船工業に通い、建物疎開で行方知れずとなった康雄さんの分も含めて五等分したことも。

 軍隊にいた兄と二年後、元安橋東側で再び「常友」の看板を掲げた。「まだ広島駅のマイク案内が耳に入るほど、家も人も少なかった」。原爆は、思い出あふれる街を、いにしえに変えてしまった。

描き込めぬ「あの日」

 消えた街の絵図を描くようになったのは、贈答品販売の店を営んでいた六十歳の声を聞いてから。一男一女の子どもらに伝えたいという願いもあった。右目水晶体を摘出した三年前まで続け、三十五点を数えた。

 しかし、「あの日」の街を描いていたのは数点どまり。人物は、ち密な被爆前の描写と違い、あまりに簡略されていた。「どうしても、それは…」。その場にいたからこそ、ありのままを描くのはためらいを覚えた。描き込めなかった。

(1997年7月26日朝刊掲載)

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