ドームの街 猿楽町 <3> 坊ちゃん 子供愛した甲子園球児
97年7月27日
肩幅の広い青年を取り囲むように、いがぐり頭や、おかっぱ頭の子どもたちが並ぶ。そばに映る旗は「猿楽町西組子供常会」と読める。写真の裏にはスタンプで「昭和十九年六月五日」と押してあった。
持ち主の今田宏行さん(64)=広島市中区=は「猿楽町の北側にあった西練兵場内の護国神社で撮ったものです」と説明し、青年は「岩崎さんといって、よくかわいがってもらった」と目を凝らした。
音楽教えハイキング
町内で「坊ちゃん」の愛称で知られた青年は戦時中も、子どもらを集めては歌の指導をしたり、記念写真を撮って配り、今でいうハイキングも催した。写真の一人、井林(旧姓藤井)越子さん(62)=佐伯区=は「背がすらっと高く、ドーム前の元安川で泳ぎも教えてもらった」と、昨日のことのように話す。
青年の左二人目に映る笠井恒男さん(63)=佐伯区=も、老舗(しにせ)のたたずまいが漂う「坊ちゃん」宅で、レコードを聞かせてもらったという。
「バッハやベートベンを知ったのが初めてなら、耳を傾けたのもあれが最後」。苦笑しながら「大八車で緑井村(現・安佐南区)へ疎開するのを手伝ったが、戦後見掛けたことはない。多分亡くなったのでは…」
青年の自宅はドームの東百メートル足らずの「猿楽町四十四番地」、現在の市民球場前の電車通りと一本南の通りまで延びていた。広島築城以来の城下町の風情をとどめるように、堀だった電車通り側の入り口には、雁(がん)木が残っていた。
写真を手に青年の消息を探すうち、戦前から全国にその名をとどろかせた「広商野球部」にいたのが分かった。高校野球史を繰ると、一九三六年のセンバツに「一塁手岩崎良太郎 4打数1安打」の記録があった。数少なくなったチームメートのうち同じクラスでもあった丸山猛さん(77)=安佐北区=がはっきり覚えていた。
「身の丈一八六センチ。学年随一の長身で、その次が私でした」。あだ名は「電信柱」。卒業後は慶応大に進んだが、原爆死した、と聞いたという。「すがすがしかった」という青年を含めて家族はどうなったのか。再び切れた糸の手掛かりは、やはり猿楽町にあった。
元住民の一人が知っていた青年の親族を通じて、ただ一人健在の妹(76)とようやく連絡が取れた。
26歳優しかった兄…
優れぬ体調を押して「兄は、自宅から商工会議所まで一緒に逃げた隣の平田さんに『自分がここにいることを伝えてほしい』と言い付けて…。二十六歳でした。その平田さんも難儀の末に…」と、か細く答えた。
岩崎良太郎は、夏の甲子園で優勝した先輩の灰山元治投手にあこがれて、同じ慶応大に進んだが、胸を患って帰郷。実家のカメラ店を手伝いながら、子どもたちの世話をしていた。
父嘉久二(54)の遺骨も不明という。一緒に暮らしていた伯父で町内会長の永助(57)と伯母サダミ(53)は、避難先にしていた緑井村までたどり着いたが、相前後して死去。実家の蔵跡には良太郎が集めたレコードが、こんもり灰になっていた。
「今でも会議所の前を通るたび、優しかった兄が助けを待っていたかと思うと…。忘れている訳じゃないけど、触れてもらいたくないんです。本当にごめんなさい…」
球児の妹は、消え入りそうな声で受話器を置いた。
(1997年7月27日朝刊掲載)
持ち主の今田宏行さん(64)=広島市中区=は「猿楽町の北側にあった西練兵場内の護国神社で撮ったものです」と説明し、青年は「岩崎さんといって、よくかわいがってもらった」と目を凝らした。
音楽教えハイキング
町内で「坊ちゃん」の愛称で知られた青年は戦時中も、子どもらを集めては歌の指導をしたり、記念写真を撮って配り、今でいうハイキングも催した。写真の一人、井林(旧姓藤井)越子さん(62)=佐伯区=は「背がすらっと高く、ドーム前の元安川で泳ぎも教えてもらった」と、昨日のことのように話す。
青年の左二人目に映る笠井恒男さん(63)=佐伯区=も、老舗(しにせ)のたたずまいが漂う「坊ちゃん」宅で、レコードを聞かせてもらったという。
「バッハやベートベンを知ったのが初めてなら、耳を傾けたのもあれが最後」。苦笑しながら「大八車で緑井村(現・安佐南区)へ疎開するのを手伝ったが、戦後見掛けたことはない。多分亡くなったのでは…」
青年の自宅はドームの東百メートル足らずの「猿楽町四十四番地」、現在の市民球場前の電車通りと一本南の通りまで延びていた。広島築城以来の城下町の風情をとどめるように、堀だった電車通り側の入り口には、雁(がん)木が残っていた。
写真を手に青年の消息を探すうち、戦前から全国にその名をとどろかせた「広商野球部」にいたのが分かった。高校野球史を繰ると、一九三六年のセンバツに「一塁手岩崎良太郎 4打数1安打」の記録があった。数少なくなったチームメートのうち同じクラスでもあった丸山猛さん(77)=安佐北区=がはっきり覚えていた。
「身の丈一八六センチ。学年随一の長身で、その次が私でした」。あだ名は「電信柱」。卒業後は慶応大に進んだが、原爆死した、と聞いたという。「すがすがしかった」という青年を含めて家族はどうなったのか。再び切れた糸の手掛かりは、やはり猿楽町にあった。
元住民の一人が知っていた青年の親族を通じて、ただ一人健在の妹(76)とようやく連絡が取れた。
26歳優しかった兄…
優れぬ体調を押して「兄は、自宅から商工会議所まで一緒に逃げた隣の平田さんに『自分がここにいることを伝えてほしい』と言い付けて…。二十六歳でした。その平田さんも難儀の末に…」と、か細く答えた。
岩崎良太郎は、夏の甲子園で優勝した先輩の灰山元治投手にあこがれて、同じ慶応大に進んだが、胸を患って帰郷。実家のカメラ店を手伝いながら、子どもたちの世話をしていた。
父嘉久二(54)の遺骨も不明という。一緒に暮らしていた伯父で町内会長の永助(57)と伯母サダミ(53)は、避難先にしていた緑井村までたどり着いたが、相前後して死去。実家の蔵跡には良太郎が集めたレコードが、こんもり灰になっていた。
「今でも会議所の前を通るたび、優しかった兄が助けを待っていたかと思うと…。忘れている訳じゃないけど、触れてもらいたくないんです。本当にごめんなさい…」
球児の妹は、消え入りそうな声で受話器を置いた。
(1997年7月27日朝刊掲載)