ドームの街 猿楽町 <4> 相生橋「秘話」 爆死した米兵捕虜目撃
97年7月28日
原爆投下の翌日、ドームそばの相生橋で米兵捕虜が電柱に吊(つる)されていた―。「原爆秘話」の一つである。逃げるところを市民につかまり、なぶり殺されたらしい…。口伝えで語り継がれるうちに尾ひれもつき、また、それをまことしやかに話す人がいる。
米軍は長い間、自国の兵士がキノコ雲の下にいたことを否定していたが、一九八三年に「陸軍八人と海軍二人の捕虜が原爆で犠牲になった」と公式に認めた。が、実数を含めてなぞは多い。市が七一年編さんした『広島原爆戦災誌』には「被爆直後、死体処理前に、相生橋東詰め北側の電柱の下に、アメリカ兵の捕虜が死んでいたが…」と、簡単な記述が残るだけだ。
電柱に針金でくくる
「ええ、若い兵隊さんが電柱の根元に針金でくくられていたのは、はっきり覚えています」
広島市東区の蔵田淑子さん(71)は、これまで盛んにいわれていた翌日ではなく、その日に目撃していた。相生橋から東に約五、六十メートルの電車通り南側。その目と鼻の先に自宅があった。旧姓笠井。生家は「猿楽町四十九―一番地」で傘の製造・卸を営んでいた。市立第一高女(現・舟入高)を卒業し、爆心地から約四・三キロの三菱重工広島造船所に勤めていた。
「引き留められましたが、乾パン一つもらって帰ったんです」。火の手を避けて天満川の河原沿いに北上し、舟入、土橋と電車の線路を歩いて爆心地へ向かった。相生橋にたどりついたのは午後七時ごろ。
橋の西側には馬がもんどり打って倒れ、その前後に兵士が六人ほどうつぶせになっていた。人気の全くない橋を渡ると、素足にズックを履いて両足を投げ出し、頭を垂れた米兵がいた。針金はカーキ色の服を着ていた上半身と、根元が残った電柱越しに巻かれていたという。
自宅跡はくすぶり続け、入れなかった。翌日、母の妹夫婦がいた佐伯区で、弟二人と妹に落ち合う。六つ違いの弟は学徒動員された中区鶴見橋付近で被爆し、大やけどで戻った。
「長女の私が十九歳、子どもばかり残って…」。父伊兵衛(49)は建物疎開に出たまま行方不明となり、母喜美子(43)は原爆投下の前日に疎開先から戻り、自宅で爆死。四人兄弟の戦後はそこから始まった。
相生橋で「あの日」見たことは、内輪の席でたまに口にしたが、それもいつしかしなくなった。三年前に亡くなった夫と家業のアイスクリーム製造で忙しく、それが「秘話」になっていることも気づかなかった。
当時の中学生も記憶
猿楽町ゆかりの人を訪ねるうち、当時中学生だった男性二人が投下の翌日、やはり相生橋の東側で若い米兵を目撃していた。その場所は微妙に食い違ったが、がれきが足下にころがっていたのは一致した。二人とも通り掛かった人たちと同じように、怒りのうちにその場にあったものを投げたと明言した。
蔵田さんが見た米兵捕虜と同一人物なのか。今となっては突き止める術(すべ)はない。ただ、「あの日」の現場に立った彼女は再度こう証言した。
「私が見た時は石なんかなく、今にも立ち上がって歩きそうな感じでした。アメリカの兵隊さんも、こんなところで死んでいる。気の毒だなぁ…と思うだけで、まるで夢か幻を見ているようでした」
相生橋での「原爆秘話」は、戦争という狂気を伝える「悲話」でもあった。
(1997年7月28日朝刊掲載)
米軍は長い間、自国の兵士がキノコ雲の下にいたことを否定していたが、一九八三年に「陸軍八人と海軍二人の捕虜が原爆で犠牲になった」と公式に認めた。が、実数を含めてなぞは多い。市が七一年編さんした『広島原爆戦災誌』には「被爆直後、死体処理前に、相生橋東詰め北側の電柱の下に、アメリカ兵の捕虜が死んでいたが…」と、簡単な記述が残るだけだ。
電柱に針金でくくる
「ええ、若い兵隊さんが電柱の根元に針金でくくられていたのは、はっきり覚えています」
広島市東区の蔵田淑子さん(71)は、これまで盛んにいわれていた翌日ではなく、その日に目撃していた。相生橋から東に約五、六十メートルの電車通り南側。その目と鼻の先に自宅があった。旧姓笠井。生家は「猿楽町四十九―一番地」で傘の製造・卸を営んでいた。市立第一高女(現・舟入高)を卒業し、爆心地から約四・三キロの三菱重工広島造船所に勤めていた。
「引き留められましたが、乾パン一つもらって帰ったんです」。火の手を避けて天満川の河原沿いに北上し、舟入、土橋と電車の線路を歩いて爆心地へ向かった。相生橋にたどりついたのは午後七時ごろ。
橋の西側には馬がもんどり打って倒れ、その前後に兵士が六人ほどうつぶせになっていた。人気の全くない橋を渡ると、素足にズックを履いて両足を投げ出し、頭を垂れた米兵がいた。針金はカーキ色の服を着ていた上半身と、根元が残った電柱越しに巻かれていたという。
自宅跡はくすぶり続け、入れなかった。翌日、母の妹夫婦がいた佐伯区で、弟二人と妹に落ち合う。六つ違いの弟は学徒動員された中区鶴見橋付近で被爆し、大やけどで戻った。
「長女の私が十九歳、子どもばかり残って…」。父伊兵衛(49)は建物疎開に出たまま行方不明となり、母喜美子(43)は原爆投下の前日に疎開先から戻り、自宅で爆死。四人兄弟の戦後はそこから始まった。
相生橋で「あの日」見たことは、内輪の席でたまに口にしたが、それもいつしかしなくなった。三年前に亡くなった夫と家業のアイスクリーム製造で忙しく、それが「秘話」になっていることも気づかなかった。
当時の中学生も記憶
猿楽町ゆかりの人を訪ねるうち、当時中学生だった男性二人が投下の翌日、やはり相生橋の東側で若い米兵を目撃していた。その場所は微妙に食い違ったが、がれきが足下にころがっていたのは一致した。二人とも通り掛かった人たちと同じように、怒りのうちにその場にあったものを投げたと明言した。
蔵田さんが見た米兵捕虜と同一人物なのか。今となっては突き止める術(すべ)はない。ただ、「あの日」の現場に立った彼女は再度こう証言した。
「私が見た時は石なんかなく、今にも立ち上がって歩きそうな感じでした。アメリカの兵隊さんも、こんなところで死んでいる。気の毒だなぁ…と思うだけで、まるで夢か幻を見ているようでした」
相生橋での「原爆秘話」は、戦争という狂気を伝える「悲話」でもあった。
(1997年7月28日朝刊掲載)