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連載・特集

ドームの街 猿楽町 <5> 生家のクスノキ 亡父が願った”平和の森”

 大正生まれの姉と妹は、原爆ドームを背にすると、感慨がこもごも口をついた。「普段はさっさと通り過ぎるようにしているけど、やはり懐かしいよね」「ほんと涙が出る」。姉妹は「猿楽町十二番地」、原爆ドーム北側と電車通りの間に挟まれる平和記念公園の一角で生まれ育った。

 生家は「川本商会」といい、陸軍第五師団司令部にも自転車を納める広島でも指折りの卸商だった。「資本金七千円。従業員七十人」。一家のアルバムには電車通り北側、今の市民球場前にも三階建てビルを構えた隆盛ぶりが残る。

 二女の川本政子さん(79)が、さくで囲まれたドーム敷地に、一つぽつんと残る石の門柱を指して言った。「もともとは対で建っていたのが、家の前まで吹き飛び、モンペ姿の女性が下敷きになっていた。助けを借りてどけてみたら、ひもだけが焼け残っていた」。ドームから歩いて二十分足らずの中区八丁堀に住む。

かわらの下に妹の骨

 術後の体を押して廿日市市の自宅から駆け付けた、四女の中谷芳恵さん(74)が生家で見た光景を続けた。「かわらを掘り返すと、妹はその下から骨がパウダーのようになって出てきた。父が『待っとったんじゃろう』と言うて…」

 九人家族だった。広島にいた両親と娘ばかりの六人のうち、母艶子(48)と六女郁江(17)が爆死した。政子さんは中区の三菱江波工場、芳恵さんは南区の宇品造船とそれぞれ徴用先で被爆しながらも、両親や妹を捜して回った。

 「大河(南区)で見つけた父は全身に突き刺さったガラス片で血まみれ。赤チンのたらいに入れて、割りばしで一つひとつ取っていったんです」と政子さん。芳恵さんは「母が元気だったころが一家の華でした…」。胸に秘めていた言い尽くせぬ思いが、顔をのぞかせた。

生の悲しみに耐えて

 原爆は、生き残った家族をも生木のように引き裂く。父の「再婚」である。多感な娘たちは、認めたくなかったし、受け入れられなかった。母は「あの日」も、学徒出陣した一人息子の無事を祈るため護国神社へ向かったまま行方知れず。その分、わだかまりがあった。しかし、いち早くドーム前で商売を再開した父も、また生の悲しみに耐えていた。

 「19年も続く廃虚の緑化」。そんな見出しの記事が一九六四年の中国新聞紙面にある。小鳥が運んできた木の実がドーム内で芽を出したのを見つけて以来、クスノキの苗をドーム周囲に移植しては育て続ける「川本福一」の思いを報じる。「世界平和記念樹の森」にしたい、と。

 姉妹の父である。芳恵さんは「自分で井戸を掘り、双葉から育てていた。この年になると、あのころ父がどんな気持ちでいたのか痛いように分かる」、政子さんは「子どもたちにも好きなことをさせてくれた」と言う。

 姉は戦後、無事復員した弟と洋裁学校を始め、広島のファッション業界をリードしてきた。弟が亡くなった後は、川本家の「当主」として、父が護国神社跡に建て残したお宮を守る。妹は一人娘が医者となり、孫二人も同じ道を歩む。

 二十七年前に亡くなった川本福一が手掛けたクスノキは、生前の願い通り「平和の森」に成長した。「木は生きているのに、人間はもろいわね…」

 政子さんは生家跡の周りに生い茂る樹木を見上げながら、感に堪えぬようにつぶやいた。

(1997年7月29日朝刊掲載)

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