ドームの街 猿楽町 <6> 墓碑銘 消えた家族7人を刻む
97年7月30日
線香のにおいがそこはかとなく漂う、初夏の広島市中区寺町。気の置けない女学校仲間と旅の途中、時間を都合して墓参に一人立ち寄る女性の姿があった。墓碑銘には「あの日」爆死した七人の名前が並んでいた。手を合わせる女性との続き柄を年齢とともに示せば、こうなる。
父甚太郎(61)、母トラ(58)、二女君子(33)、三女花子(31)、長男秀太郎(28)、四女幸子(23)、おいで幸子の長男護(まもる)=生後八カ月。いずれも原爆ドームから東約二百メートルの「猿楽町五十八番地」にあった清水組(現・清水建設)広島支店と、隣接する社宅で亡くなった。
「父とすぐ上の姉、私の三人が清水組にお世話になっていたんです」。張りのある声で、川崎市中原区に住む五女の林美子さん(73)が振り返った。
建物疎開で移り住む
広島支店が一九七五年に編さんした『30年のあゆみ』によると、「日支事変(注=三七年)の拡大とともに、軍の特急工事を続々と命じられ」とある。畳職人だった父は整務員、同窓の姉に続いて林さんも広島女子商を卒業すると四一年、タイピスト事務員で入社。やがて「尾道町(中区大手町二丁目)の自宅が建物疎開に引っ掛かり、護が生まれて間もなく社宅へ」移った。
国は都市部での空襲による延焼防止を理由に建物疎開を告示し、広島市では四四年十一月に始まった。「総力戦」の掛け声の下、庶民は立ち退きを迫られる。かといって、住まいはおいそれと見つからない。林一家は、留守番がてら社宅に移るしか、すべはなかった。とどまったとしても、一度に戦略爆撃機B29三千機の襲来を超す威力を持つ原爆は、尾道町も吹き飛ばした…。
「父は支店の玄関前、ほかの者は台所で朝のお膳(ぜん)を囲んでいたのか、丸く並んだ格好で見つかりました」
林さんは、たまたま休みを取って南区に住む知人を訪ねる途中だった。混乱のうちに、ぼうぜん自失のまま会社を辞めて、洋裁で身を立てようとした。が、言いようのない寂りょう感はぬぐえなかった。
肉親の元で眠りたい
「右ノ者昭和二十年八月六日ノ戦時災害ニ依(よ)ル罹(り)災者タルコトヲ証明ス 東警察署長」。今も保存する一片の紙を携えて、単身上京したのは五四年。「狭い広島でくよくよするより出て来たら」。原爆の熱線によるケロイドを負った旧友たちも新しい人生に踏み出していた。決して独りぼっちではなかった。
「それからですよ。強くなったのは」。紹介された都内の新聞輸送会社で、六十歳の定年まで働く。その傍ら、神奈川県原爆被災者の会に加わり、「あの日」を体験した者として、県内での原爆死没者の追悼に取り組む。
「聞かれれば、私は体験したことは話します。すると、向こうでは『広島生まれの人は強いわね』と言われるんですよ。放射線遺伝の偏見や、毛布一つさえもらっていない空襲罹災者のことを考えて、口ごもってしまうんですね」。広島を離れて生きる被爆者だれしもが経験する思いを歯切れよく述べた。自身「のんきな性格」と笑った。
その彼女にしてからが、死んだら郷里に戻るという。「やはり親兄弟がいますからね」。墓石の後ろには「平成三年九月林美子建立」と赤い字で刻まれていた。
(1997年7月30日朝刊掲載)
父甚太郎(61)、母トラ(58)、二女君子(33)、三女花子(31)、長男秀太郎(28)、四女幸子(23)、おいで幸子の長男護(まもる)=生後八カ月。いずれも原爆ドームから東約二百メートルの「猿楽町五十八番地」にあった清水組(現・清水建設)広島支店と、隣接する社宅で亡くなった。
「父とすぐ上の姉、私の三人が清水組にお世話になっていたんです」。張りのある声で、川崎市中原区に住む五女の林美子さん(73)が振り返った。
建物疎開で移り住む
広島支店が一九七五年に編さんした『30年のあゆみ』によると、「日支事変(注=三七年)の拡大とともに、軍の特急工事を続々と命じられ」とある。畳職人だった父は整務員、同窓の姉に続いて林さんも広島女子商を卒業すると四一年、タイピスト事務員で入社。やがて「尾道町(中区大手町二丁目)の自宅が建物疎開に引っ掛かり、護が生まれて間もなく社宅へ」移った。
国は都市部での空襲による延焼防止を理由に建物疎開を告示し、広島市では四四年十一月に始まった。「総力戦」の掛け声の下、庶民は立ち退きを迫られる。かといって、住まいはおいそれと見つからない。林一家は、留守番がてら社宅に移るしか、すべはなかった。とどまったとしても、一度に戦略爆撃機B29三千機の襲来を超す威力を持つ原爆は、尾道町も吹き飛ばした…。
「父は支店の玄関前、ほかの者は台所で朝のお膳(ぜん)を囲んでいたのか、丸く並んだ格好で見つかりました」
林さんは、たまたま休みを取って南区に住む知人を訪ねる途中だった。混乱のうちに、ぼうぜん自失のまま会社を辞めて、洋裁で身を立てようとした。が、言いようのない寂りょう感はぬぐえなかった。
肉親の元で眠りたい
「右ノ者昭和二十年八月六日ノ戦時災害ニ依(よ)ル罹(り)災者タルコトヲ証明ス 東警察署長」。今も保存する一片の紙を携えて、単身上京したのは五四年。「狭い広島でくよくよするより出て来たら」。原爆の熱線によるケロイドを負った旧友たちも新しい人生に踏み出していた。決して独りぼっちではなかった。
「それからですよ。強くなったのは」。紹介された都内の新聞輸送会社で、六十歳の定年まで働く。その傍ら、神奈川県原爆被災者の会に加わり、「あの日」を体験した者として、県内での原爆死没者の追悼に取り組む。
「聞かれれば、私は体験したことは話します。すると、向こうでは『広島生まれの人は強いわね』と言われるんですよ。放射線遺伝の偏見や、毛布一つさえもらっていない空襲罹災者のことを考えて、口ごもってしまうんですね」。広島を離れて生きる被爆者だれしもが経験する思いを歯切れよく述べた。自身「のんきな性格」と笑った。
その彼女にしてからが、死んだら郷里に戻るという。「やはり親兄弟がいますからね」。墓石の後ろには「平成三年九月林美子建立」と赤い字で刻まれていた。
(1997年7月30日朝刊掲載)