ドームの街 猿楽町 <9> 遺骨はだれ 被災の全容なお未解明
97年8月3日
消えた街、猿楽町ゆかりの人たちを訪ね歩くうち、生存しながら「原爆死没者」とみなされていた女性に出会った。広島市佐伯区に住む永木博子さん(66)。平和記念公園の原爆供養塔に安置され、市が引き取り手を捜す「納骨名簿」で、被爆時の氏名に加えて肩書も添えられて載っていた。「岡本博子(女学生)」と。本人の連絡で人違いが判明し、名簿から消されたのは昨年からである。
「仮に姉と間違われたとしても姉の遺骨は私が拾っているんです。なぜ、私の名前が載っていたのか、確かめようがないとはいえ、気になります」。当時十四歳、山中高女の三年生だった。
同窓会名簿に「死去」
生家は、ドーム東側の「猿楽町四十番地」で味カイ(みそ)の製造・卸を営んでいた。四人家族。両親と姉が原爆死した。父岡本英夫(42)は防空警戒に、母エイ(40)は建物疎開にそれぞれ出ていた。県立第一高女五年の姉房子(18)は体調を崩して、呉の広航空廠(しょう)から帰宅していた。
「私は学徒動員で三菱の造船所(爆心地から約四・三キロ)にいたんです」。翌日、あらかじめ町内の避難先といわれていた緑井村(現・安佐南区)にたどり着く。一足違いで息絶えていた姉のおさげ髪を切り、遺体を河原で焼いた。続いて二十二日、安佐北区の疎開先に運ばれてきた母が亡くなると、知り合いの婦人の助けを借りて死に装束を着せ、自分で火をつけた。父は行方不明であった。
「泣き叫ぶ年ごろでしょ。しかも高熱にうなされていたのに。どうしてできたのか…。われながら不思議です」。被爆の混乱が続くさなかの九月、香川県の親族に引き取られ、そこで女学校を卒業して結婚。旅行会社に勤めていた夫の仕事で転勤が続いた。母校袋町小の同窓会名簿でも「死去」となっていた。旧友が気づき、直ったのは十年ほど前という。
母と同じ名に戸惑い
「私のところは母と同姓同名が載っているんです。墓の骨が違うといわれているようで…」。安佐北区に住む三上義之さん(63)は、市が毎年夏になると公開する無縁仏の「納骨名簿」に、戸惑いと一抹の不安を覚える。
仏壇に供える一家の「名簿」には、五人が「原爆死」と記されていた。祖母タメ(75)、母朝子(38)、二男正人(12)、五男誠夫(2つ)。「猿楽町七十一番地」の自宅が建物疎開を命じられて移った「油屋町」(爆心地から約五百メートル)にいた家族全員が犠牲になった。応召にあった父や、縁故疎開をしていた小学六年の三上さんに代わって、母の妹が捜しに入った。
「母は誠夫をねんねこ半てんに背負い、自宅にあった防火水槽の中で死んでいたそうです」。叔母は半てんの柄にも見覚えがあったことからトタン屋根の上で焼き、納骨した。「それが十年以上前になりますか、納骨名簿にある名前は母のことじゃないかと親せきの者から聞いて以来、気持ちがねぇ…」。
市の「納骨名簿」には「三上アサ子」との氏名が載る。「投下直後の中を捜してくれた叔母のことを考えると、たまたま同じ名前があった。そう思うしか…。それにしても浮かばれん話ですよね」
一九四五年末までに死没を確認した猿楽町の住民は百十二人を数えた。その多くが遺骨が不明のままであり、納骨できた遺族も「多分間違いない」。半ば言い聞かせてであった。
(1997年8月3日朝刊掲載)
「仮に姉と間違われたとしても姉の遺骨は私が拾っているんです。なぜ、私の名前が載っていたのか、確かめようがないとはいえ、気になります」。当時十四歳、山中高女の三年生だった。
同窓会名簿に「死去」
生家は、ドーム東側の「猿楽町四十番地」で味カイ(みそ)の製造・卸を営んでいた。四人家族。両親と姉が原爆死した。父岡本英夫(42)は防空警戒に、母エイ(40)は建物疎開にそれぞれ出ていた。県立第一高女五年の姉房子(18)は体調を崩して、呉の広航空廠(しょう)から帰宅していた。
「私は学徒動員で三菱の造船所(爆心地から約四・三キロ)にいたんです」。翌日、あらかじめ町内の避難先といわれていた緑井村(現・安佐南区)にたどり着く。一足違いで息絶えていた姉のおさげ髪を切り、遺体を河原で焼いた。続いて二十二日、安佐北区の疎開先に運ばれてきた母が亡くなると、知り合いの婦人の助けを借りて死に装束を着せ、自分で火をつけた。父は行方不明であった。
「泣き叫ぶ年ごろでしょ。しかも高熱にうなされていたのに。どうしてできたのか…。われながら不思議です」。被爆の混乱が続くさなかの九月、香川県の親族に引き取られ、そこで女学校を卒業して結婚。旅行会社に勤めていた夫の仕事で転勤が続いた。母校袋町小の同窓会名簿でも「死去」となっていた。旧友が気づき、直ったのは十年ほど前という。
母と同じ名に戸惑い
「私のところは母と同姓同名が載っているんです。墓の骨が違うといわれているようで…」。安佐北区に住む三上義之さん(63)は、市が毎年夏になると公開する無縁仏の「納骨名簿」に、戸惑いと一抹の不安を覚える。
仏壇に供える一家の「名簿」には、五人が「原爆死」と記されていた。祖母タメ(75)、母朝子(38)、二男正人(12)、五男誠夫(2つ)。「猿楽町七十一番地」の自宅が建物疎開を命じられて移った「油屋町」(爆心地から約五百メートル)にいた家族全員が犠牲になった。応召にあった父や、縁故疎開をしていた小学六年の三上さんに代わって、母の妹が捜しに入った。
「母は誠夫をねんねこ半てんに背負い、自宅にあった防火水槽の中で死んでいたそうです」。叔母は半てんの柄にも見覚えがあったことからトタン屋根の上で焼き、納骨した。「それが十年以上前になりますか、納骨名簿にある名前は母のことじゃないかと親せきの者から聞いて以来、気持ちがねぇ…」。
市の「納骨名簿」には「三上アサ子」との氏名が載る。「投下直後の中を捜してくれた叔母のことを考えると、たまたま同じ名前があった。そう思うしか…。それにしても浮かばれん話ですよね」
一九四五年末までに死没を確認した猿楽町の住民は百十二人を数えた。その多くが遺骨が不明のままであり、納骨できた遺族も「多分間違いない」。半ば言い聞かせてであった。
(1997年8月3日朝刊掲載)