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連載・特集

ドームの街 猿楽町 <10> 消えた古里 人の息遣い 映像に残す

 「その時、ぼくは国民学校二年生だった」

 田辺雅章さん(59)の被爆体験記は、原爆を投下した米国による占領時代の一九五一年に編まれ、岩波文庫となった「原爆の子」に収まる。その田辺さんの手になるハイビジョン作品の収録が新緑輝く五月、平和記念公園で始まった。「もうちょっと左へ…フル・サイズで…OK」。気合に満ちた声が飛んだ。

 日よけキャップをかぶった監督兼制作者は、スタッフが次の撮影地点に移動した後も、ひさしを被写体に向けたまま動こうとしなかった。「足の裏がしゃく熱のようになりながら、祖母とかわらを掘り返したのは、ちょどあの辺り。遺骨は見つからずじまいでした」。今はさくで囲まれるドームの中に、生家はあった。

 「猿楽町二十四番地」。そこで、母八重子(31)と弟紘郎(1つ)は爆死した。陸軍中尉の父文夫(38)は出勤途中に被爆し、長男の田辺さんたちが疎開していた山口県熊毛郡で、終戦の日の八月十五日に亡くなった。

祖母とタケノコ生活

 冒頭の手記が、今に続く道を決定づけた。「原爆の子」は相前後して二つの映画となり、中学生だった田辺少年もロケ地での案内を手伝う。「撮影スタッフが肉を腹いっぱい食べるのを見て、それでこの仕事にあこがれたんです」と真顔で言う。土地や貸家を手放す祖母との「タケノコ生活」が続いていた。

 「原爆の子」ゆえの注目は、重荷にもなった。「平和」を訴える労働組合の運動にも駆り出され、振り回された。学校からは冷ややかな視線を浴びた。いたたまれずに、高校は伯父がいた山口へ。東京で働きながら大学を卒業して入社した中国新聞社ニュース映画製作部でも、七五年に中区内で映像プロダクションを構えた後も、「原爆」に関する仕事はかたくなに避けた。沈黙を守った。

 「テレビや新聞の前でも、おうむ返しに通り一遍の体験やスローガンをとくとく語る者たちと、同じように見られたくない。そうした気持ちの被爆者は多いと思いますよ」。マスコミの原爆報道の姿勢をもさらっと、かつ厳しく批評した。

 沈黙を破ったのは被爆五十周年。広島市の「証言ビデオ」制作で在韓被爆者をテーマにするのを知り、手を挙げた。被爆体験を持つ自分にこそと思った。国家のはざまで顧みられることの少ない被爆者たちとひざを交えて、その思いを収録した。再び「原爆」に向き合い、おぼろげに温めていた企画が焦点を結んでくるのを覚えた。

「この年になると…」

 それは、自身の原点にあった。生まれ育ち、消えてしまった街を、残ったドームをデジタル映像で永久的に記録保存しようというものだった。文部省の特殊法人「日本芸術文化振興会」から本年度助成金交付の知らせが届いたこともあり、撮影に取り掛かった。

 若いスタッフを追い掛けながら、話は続いた。「この年になると、現役であと何年できるか考えるようになるもんです」。照れと自負をないまぜに「映像人としての集大成」をもくろむ作品の狙いを、こう明かした。

 「何よりも人の息遣い、ぬくもりがあった。最新の技術でドームにとどまらず、猿楽町の情景と音も復元し、あの日起きたことを伝えたい。きちんと残したい」

 一時間となる作品のタイトルは「原爆ドームと消えた街並み」。生き残った元住民も協力する撮影は、いよいよ本番を迎える。(報道部・西本雅実)=おわり=

(1997年8月4日朝刊掲載)

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