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猿楽町死者 112人確認 ドームの街 遺族の連絡続々 生存者は54世帯に きょう合同法要

 原爆ドームを残して消えた街、「広島市猿楽(さるがく)町」ゆかりの人たちが二日、五十二年ぶりに集い、合同慰霊法要を開く。それを前に、元住民たちと中国新聞社による被災記録の掘り起こしで、一九四五年末までに確認できた住民関係の死者は百十二人に上り、五十四世帯に生存者がいることが分かった。

 原爆投下前の猿楽町の復元戸別概略図と、四五年末までの住民九十一人と翌年一人の詳しい死没記録が中国新聞の二十三日付紙面で報じられ、ゆかりの人たちでつくる「矢倉会」(益本嘉六会長)などに関係者から百件を超す連絡が入った。

 追跡調査の結果、新たに九世帯、二十一人が四五年末までに、一人が翌年に被爆の急性障害で亡くなっていたのが確認され、うち二十人がその日に爆死していたことが分かった。爆死者は、これまでを含めて九十六人。新たに判明した爆死者の多くは自宅や、勤務先で被爆していた。

 今回判明した死没者の遺族は被爆後、都内や愛知、山口、福岡県などに移り住んでいた。「広島での体験が遠くなったように感じていたが、ゆかりの人たちの力で街をよみがえらせようという動きを知り、感無量です」と、市も初出と認める貴重な写真を探し、送ってくるケースもあった。

 ドームそばの西向寺で営む法要には全国から遺族ら約六十人が集まり、犠牲者を追悼、さらなる街の復元調査を話し合う。

 死没者の名前(年齢)▽職業▽爆死状況▽45年8月6日の居住者(応召や疎開は除く)と、ほかの家族らの被爆状況=いずれも遺族が持つ記録や、聞き取りに基づく(敬称略)

 桧山常次郎(62)▽旅館▽安佐北区から、爆心地に入り妻たちを探す。46年11月13日、死去▽妻と子、おいの妻子の6人。
 妻 キセ(52)▽猿楽町20-1番地の自宅で爆死。
 長男 清(24)▽食料店▽自宅で爆死。
 弟の妻 桧山イズミ(47)▽雑魚場町(現・中区国泰寺町)へ建物疎開に出て6日死去。遺骨は不明。
 末友信行(46)▽毛筆店▽雑魚場町での建物疎開に出て爆死▽妻と長女の3人。妻子は前日、実家の安芸郡熊野町へ。
 山本助一(64)▽家具店▽猿楽町33番地の自宅で爆死
 妻 ヒサヨ(52)▽長男
 徳(めぐみ)=(21)▽二男 武典(15)▽三女 寿美子(13)▽三男 勝(8)▽自宅で全員爆死したとみられる(写真なし)
 宮本イサヨ(47)▽夫が猿楽町50-1番の板谷生命に勤務▽社宅から西区に疎開し、自宅近くで爆死▽子どもと3人。長女は学徒動員先に向かう西区で被爆。
 長男 忠男(13)▽本川国民学校高等科1年▽中区の土橋町付近で建物疎開作業中に爆死。遺骨は不明。
 熊本繁一(46)▽佐伯便利社支配人▽猿楽町51番地の会社で爆死▽自宅は南区京橋町で妻と子の6人。妻子も被爆し、二女は建物疎開作業に出て爆死。
 住吉寿美子(28)▽佐伯便利社社長の三女▽夫の召集で子ども2人と実家に帰省し、家業の印刷・広告会社で爆死▽男児2人と両親、兄弟の7人は東区の疎開先で被爆(写真なし)
 大塚忠男(40)▽洋服店▽猿楽町76番地の自宅で爆死▽妻と子の3人。一人娘は学徒動員先の西区楠町の製針工場で被爆。
 妻 シヅヱ(34)▽自宅で爆死。
 鎌倉千恵子(30)=写真左▽時計店▽大塚洋服店の南隣の自宅で爆死したとみられる▽二女と2人。母と長女は安佐南区に疎開。
 二女 和枝(2)▽自宅で爆死したらしい=写真右
 若井均(47)▽小児科医▽猿楽町83‐1番地の自宅で爆死▽3人。長男は安芸区の妻の実家に疎開。
 妻 松香(38)▽自宅から中区の縮景園まで逃れ7日、兄と再会後に死去。
 二男 広(4)▽自宅で父と食事中に爆死したらしい。遺骨は確認できず。

(1997年8月2日朝刊掲載)

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