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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1986年8月6日 カナダの平和大使

サーローさん提案 実る

 1986年8月6日。カナダ・トロント市に住む当時54歳の被爆者サーロー節子さん(93)が地元の高校生2人と共に、広島市の平和記念式典に参列した。サーローさんが軍縮・平和教育を根付かせるために提案し、勤務先のトロント市教委が派遣した「平和大使」だった。

「沈黙を破る」

 サーローさんは広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)2年の時、学徒動員先で被爆。姉や4歳のおいたち親類、学友の犠牲が原体験として深く刻まれた。広島女学院大を卒業後に米国へ留学。結婚を機にトロント市へ移った。

 「トロントはあまりにも核問題に静か過ぎた。沈黙を破ることが活動のテーマでした」。70年からソーシャルワーカーとして市教委で働く傍ら、反核運動に力を注ぐ。

 賛同者300人以上の連名で「核兵器の完全廃絶」を訴える意見広告を新聞に掲載。被爆30年の75年には、広島の原爆資料館から被爆写真などの資料の提供を受けてトロント市庁舎で原爆展を開いた。翌年以降も毎年8月6日に合わせ集会を続けた。

支えは被爆者

 支えになったのは、広島の被爆者の存在。学生時代に通った広島流川教会では、米国市民が原爆孤児を支援する「精神養子運動」など谷本清牧師の活動を手伝っていた。後に被爆者運動の先頭に立つ森滝市郎さんと学生時代に初めて出会い、原爆詩人の栗原貞子さんとも交流があった。

 若者にも被爆地を肌身で感じてもらおうと提案した平和大使は、トロント市内の高校100校の生徒から「広島・長崎の意味」をテーマに作品を募り、最優秀の2人を選んだ。いずれも当時17歳のデービッド・リンさんとカレン・グッドフェローさん。86年7月31日に広島入りすると、被爆者から証言を聞き、若者と交流した。帰国後は、高校や地域の集会で報告会を開いた。

 精力的な活動は当時のマルルーニー首相の目に留まり、首相官邸に招かれた。グッドフェローさんは千羽鶴を持参して核兵器廃絶を訴え、現地メディアも報じた。サーローさんは「若者はもちろん、教育委員の意識改革にもつながったし、核問題への意識が地域全体で高まった」と話す。

 ただ、原爆投下国で核超大国の米国と深く交わるカナダでの活動は、冷戦期も相まって困難を伴った。82年に、首都オタワの美術館での「原爆の絵」展に招かれた際は会場に爆破予告が届いた。

 さらに国連軍縮特別総会が開かれる米国へ向かおうとすると、出国審査で足止めされた。米側の圧力を感じ「反核を叫ぶ人はもてなしたくないと。こんなにあからさまな嫌がらせは初めてで、涙が出ました」。

 一方で、「カナダは多民族国家で、日本軍に抑圧された親類を持つ人もいる。そうした人々が心を開くには加害の歴史にも目を向けないといけない」とも考えた。国内外で証言を続け、75歳となった2007年、反核医師たちを中心にオーストラリアで設立された非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))の活動に出合う。(山下美波)

(2025年5月11日朝刊掲載)

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