[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1985年10月 南米被爆者健康相談
25年5月10日
巡回医師団 初めて派遣
1985年10月。南米に住む被爆者のため、国と広島、長崎両県が巡回医師団を初めて現地に派遣した。健康相談や療養指導に当たる医師3人を含む8人が、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンを2週間で回った。
前年の84年、ブラジルでは在ブラジル原爆被爆者協会(後のブラジル被爆者平和協会、解散)が発足。広島で被爆し、理事長を務める森田隆さん(2024年に100歳で死去)は同年に妻綾子さん(09年に84歳で死去)と一時帰国し、「援護の手を差し伸べてほしい」と厚生省、広島県、広島市に要請していた。
要請時の会員は97人でうち被爆者健康手帳の所持者は27人。日本での交付申請が必要な上、国外に出ると厚生省の「402号通達」に沿って失効扱いとされたため、医療費は支給されず、健康管理手当などの各種手当も受けられなかった。
日本語で相談
日本の医師派遣は、在外被爆者の援護に背を向ける厚生省に森田さんが「せめて」と訴えていた。協会の設立当初から被爆者支援に携わった長女斎藤綏子さん(77)=サンパウロ市=は「日本語で専門医に相談できるのでありがたかった」と振り返る。
斎藤さんによれば、現地は被爆者への社会的な理解が低く、言語の壁も重なって症状が悪化するまで受診しない人が多かった。50、60年代に働き盛りで移住した人が80年代になると年を重ねて健康不安が増していた。
初の健康相談には3カ国で計133人が参加し、「気持ちが楽になった」などの声が出た。一方で、派遣された県立広島病院副院長の門前徹夫さん(故人)は帰国後、公立病院の医療機器不足や、インフレによる医療費高騰を危惧。77年に広島県医師会などが始めた北米被爆者健診にも参加していたが、南米の医療状況は「貧困」で「日本の戦前並みの水準」と指摘した。
南米への医師団派遣は翌86年から隔年で続いたが、健康相談後に、参加者の経済事情から治療につながらないケースがあった。在ブラジル原爆被爆者協会が88年、南米5カ国の被爆者の生活実態をアンケートで調べている。
手当支給なく
188人のうち139人が回答し、被爆者向けの手当を受けている人はゼロ。「日本の被爆者は幸福だと思います。私要治療者なのですが薬代がないので薬草をせんじてのんでます」「移住者は最初は経済の安定のため、おしみなく働かねばならないが、そのため無理を重ねることもあり、45歳すぎると多種の病気が出てくることが多い」…。自由記述欄に切実な声が並んだ。
「病気になったときは日本政府に助けてほしい。それが当時のたった一つの願いでした」と斎藤さん。90年に広島県医師会による帰国治療の事業が始まったが、対象は年に数人。地球の真裏の日本に渡れる体力のある人に限られた。
森田さんは02年、問題の根本的な解決を図るため、海外で暮らす被爆者への健康管理手当の支給を求め、国などを相手取り広島地裁に提訴した。韓国や米国の被爆者と連帯し、裁判闘争で日本政府からの援護の道を切り開いていった。(山下美波)
(2025年5月10日朝刊掲載)