広島の原子雲 松山沖で撮影 米軍機の位置 研究者特定 地上からの直後の写真 オリジナルも現存
00年2月22日
weight:bold;">野忽那島上空9000メートル
一九四五年八月六日、広島市細工町(現・中区大手町一丁目)の上空約五百八十メートルでさく裂した広島原爆による史上初の原子雲(きのこ雲)の記録写真について、中国新聞社は、研究者の調査や撮影者の証言を通じ、米軍の撮影地点・状況の特定と、地上から撮ったオリジナルネガの現存や本来の構図を確認した。
原子雲は、核分裂性物質ウラン235の爆発点の温度が数百万度となり生じた火球の気化による煙と、地上への衝撃波により吹き上げられた物質が相まって起きた。原爆投下機エノラ・ゲイの飛行記録によると、投下四十五分後には、雲は「四万フィート(一万二千二百メートル)以上」に達した。
広島市の原爆資料館と東館を結ぶ回廊にも大型パネル写真で掲げられ、原子雲の巨大さを伝える米軍撮影の代表的な一枚。これまであいまいだった撮影地点・状況について、資料館資料調査研究会メンバーで写真家の井手三千男さん(58)=安佐北区安佐町後山=は「松山市沖合の野忽那(のぐつな)島の上空約九千メートルから、投下四時間後に写真偵察機が撮ったものに違いない」と、セスナ機で同じアングルを探して撮影した検証作業とワシントンに送られた米軍の電文内容に基づいて特定した。
地上から見た原子雲は、投下四日後に作成された「陸軍側及海軍側調査概要」によると、閃(せん)光の直後に「碧(あお)色帯ビタル乳白色ノ煙ガムラムラ上昇」したとある。
「光った瞬間に建物の中へ走り、爆風で押し倒されましたが、二階に上がって窓から撮ったんです」。西区横川町三丁目の深田敏夫さん(71)は「八月六日」のオリジナルネガを保存していた。学徒動員されていた爆心二・七キロ、現在は南区の広島大霞キャンパスになっている広島陸軍兵器補給廠(しょう)の二階窓から、ポケットに入れていた小型のカメラで連続して収めた四枚。被爆後の行動時間や雲の形から、遅くとも爆発二十分以内の撮影とみられる。
広島県安芸郡海田町蟹原一丁目の尾木正己さん(85)は、呉市若葉町にあった呉海軍工廠火工部で勤務中に「どこかの弾薬庫が爆発したのだろうと思った」まま約四十分後に、西の空に広がる異様な雲を一枚だけ撮った。歳月による複写が重なり、公的な刊行物にも陸地部や海がトリミングされた写真が掲載されている。
▼20分内の連続写真 広島陸軍兵器補給廠2階窓から深田さんが撮影したオリジナルネガをプリントした。(1)から撮影順と推定される、(1)と(2)の左上に見えるのは補給廠の軒。(3)と(4)にあるのは、前に立っていた松。4枚の連続写真を並べると、原子雲の上昇の激しさが分かる
(2000年2月22日朝刊掲載)