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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1990年9月 チョルノービリ原発事故の支援

調査団に広島の医師ら

 1990年9月。広島赤十字・原爆病院(広島市中区)の医師だった土肥博雄さん(79)は、当時ソ連のチョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故の被災地に入った。国際原子力機関(IAEA)の調査団の一員として派遣。原発がある現在のウクライナや隣国のベラルーシで、米国、オーストラリアなどの医師たちと被曝(ひばく)した人たちの健康状態を調べた。

 原発事故は86年4月26日に発生。試験運転中の4号機で燃料棒が高温で溶けて破損する炉心溶融が起き、爆発した。消火や除染の事故処理に参加した人が被曝したばかりではなく、大量の放射性物質が北半球に飛散し、世界に衝撃を与えた。

 放射線はどんな健康影響を引き起こし、どんな医療支援が必要か―。広島の医師たちは原爆の被爆者の治療に携わりながら、知見を蓄えていた。土肥さんは、被災地の市民が広島に寄せる関心を肌で感じた。「住民は広島の放射線による被害を知っていて、健康を心配していました。対象外の住民が検査してほしいと来たこともありました」

子のがん報告

 調査団には長崎の医師も参加し、10月まで活動。一定の年齢で対象者を抽出し、甲状腺や血液などの状態を調べた。その時点では目立った異常が認められなかったという。IAEAは91年5月に「放射線被曝に直接起因する障害はない」との結果をまとめた。

 ただ、90年代初めから現地で小児の甲状腺がんの報告が出始める。広島市南区でクリニックを開く武市宣雄さん(81)も91年8月以降、市民団体の支援で訪れたウクライナやベラルーシで異変を見た。

 被曝した人だけでなく、環境なども確認。甲状腺ホルモンをつくるヨードがもともと不足していた地域だったため、事故により放出された放射性ヨードを体内に吸収しやすかったのが、がんの増加につながったとの報告をまとめた。「広島の被爆者を診てきた経験を還元するとともに、新しい知見を得る必要があるとの思いで活動していました」

 チョルノービリ原発事故は、核兵器使用の被害者にとどまらない「ヒバクシャ」の存在を多くの市民にあらためて突きつけた。事故直後、広島県被団協の森滝市郎理事長は「核時代の中で、核実験はもとより、ウラン採掘・精錬、原発などでの被曝者が増えている。今回の事故は、核に依存する社会への警告だ」(86年5月1日付本紙)と訴えた。

被害後絶たず

 87年にはブラジルで医療用放射線事故が起きるなど被害は後を絶たない中、広島県は被爆者医療のデータや情報を国内外に提供する体制づくりに乗り出す。91年4月、県医師会、広島赤十字・原爆病院、広島大医学部など県内10機関で構成する「放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)」が発足。県が事務局を担った。

 2004年から会長を務めた土肥さんは「窓口が整備され、体系的な研修プログラムを提供できるようになった」。チョルノービリ原発に近接するベラルーシ、旧ソ連の核実験場があったカザフスタン、海外で原爆被爆者が多く住む韓国や米国、ブラジル…。各国の医師を広島へ研修に受け入れた。(下高充生)

(2025年5月13日朝刊掲載)

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