[ヒロシマドキュメント 1946年] 5月 広島駅前で食堂を開業
25年5月13日
1946年5月。広島市の広島駅に程近い猿猴橋町(現南区)で、小田義雄さん(81年に72歳で死去)が食堂を営んでいた。被爆前は写真関係の仕事をしていたが、被爆直後は漁師に。生計を立てるための新たな家業を、当時11歳だった長女の綿崎直子さん(90)=安佐南区=も必死に支えた。
広島原爆戦災誌(71年刊)によると、46年になり「松原町から猿猴橋町・荒神町方面へかけてソギ葺き、板張りの商店や旅館住宅がならびはじめ、焦土はようやく復興の緒についた」。小田さんは親戚の土地に建てた6畳間と台所を備えたバラックの自宅で、野菜の天ぷらやドーナツを作って提供した。
「駅前の闇市には人がいっぱい来るので、父はちょうどいいと思ったようです」と綿崎さん。店番をしたり、きょうだいの面倒を見たりした。客は占領軍の関係者や旅行者、学生たちさまざま。商売慣れしていない両親は苦労も多く、「米と交換する」とその日の天ぷらを全て持ち去られたこともあった。
被爆前、一家7人でやはり広島駅近くの大須賀町(現南区)に暮らしていた。45年8月6日、綿崎さんは倒れた自宅から近所の人に引っ張り出されて助かった。ただ、饒津(にぎつ)神社でやけどを負った6歳の妹は約1カ月後に「みんな仲良うしてね」と言って亡くなった。
冬場になると父が漁に出始め、46年3月ごろに猿猴橋町に移った。食堂経営は楽ではなかった。綿崎さんは段原中に入学後もノートを買えず、「長女だから犠牲になってくれ」と高校進学はかなわなかった。事務職として会社に勤めながら、戦後に生まれた妹と弟2人を含め、きょうだいの世話を一手に担った。
「両親も大変な日々だったと思う。ただ、私も大きな海へ浮き一つ持たず投げ出された気分でした」。念願の通信制の高校に通い始めたのは55歳の時だった。(山本真帆)
(2025年5月13日朝刊掲載)
広島原爆戦災誌(71年刊)によると、46年になり「松原町から猿猴橋町・荒神町方面へかけてソギ葺き、板張りの商店や旅館住宅がならびはじめ、焦土はようやく復興の緒についた」。小田さんは親戚の土地に建てた6畳間と台所を備えたバラックの自宅で、野菜の天ぷらやドーナツを作って提供した。
「駅前の闇市には人がいっぱい来るので、父はちょうどいいと思ったようです」と綿崎さん。店番をしたり、きょうだいの面倒を見たりした。客は占領軍の関係者や旅行者、学生たちさまざま。商売慣れしていない両親は苦労も多く、「米と交換する」とその日の天ぷらを全て持ち去られたこともあった。
被爆前、一家7人でやはり広島駅近くの大須賀町(現南区)に暮らしていた。45年8月6日、綿崎さんは倒れた自宅から近所の人に引っ張り出されて助かった。ただ、饒津(にぎつ)神社でやけどを負った6歳の妹は約1カ月後に「みんな仲良うしてね」と言って亡くなった。
冬場になると父が漁に出始め、46年3月ごろに猿猴橋町に移った。食堂経営は楽ではなかった。綿崎さんは段原中に入学後もノートを買えず、「長女だから犠牲になってくれ」と高校進学はかなわなかった。事務職として会社に勤めながら、戦後に生まれた妹と弟2人を含め、きょうだいの世話を一手に担った。
「両親も大変な日々だったと思う。ただ、私も大きな海へ浮き一つ持たず投げ出された気分でした」。念願の通信制の高校に通い始めたのは55歳の時だった。(山本真帆)
(2025年5月13日朝刊掲載)