[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1992年4月 ゴルバチョフ氏訪問
25年5月14日
核兵器全廃へ連帯訴え
1992年4月17日。旧ソ連の最後の最高指導者、ミハイル・ゴルバチョフ元大統領(2022年に91歳で死去)が広島市を訪れた。平和記念公園(中区)で原爆慰霊碑に献花し、原爆資料館を見学。「私は広島からの呼びかけに応え、それを意識して政策を進めてきた」と核超大国を率いた歩みを振り返った。
東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が89年11月に崩壊。ゴルバチョフ氏は12月、マルタでブッシュ(父)米大統領と冷戦の「終結」を宣言した。東西融和の流れを生んだ立役者とされ、90年にノーベル平和賞を受けた。
核軍縮への貢献も受賞理由となった。共産党書記長に就いた85年、レーガン米大統領と首脳会談し、「核戦争は決して戦われてはならない」とする共同声明を発表。米ソは87年に中距離核戦力(INF)廃棄条約、91年には史上初めて戦略核兵器を削減する第1次戦略兵器削減条約(START1)に調印した。
妻と共に来日
訪日したソ連外相を通じて広島、長崎両市長から被爆地訪問の要請を受けると、86年2月に「広島、長崎の不安をよく理解している。核兵器のない21世紀をつくらなければならない」と親書を寄せた。実現しなかったが、5月の演説で核実験禁止に関する米ソ首脳会談の候補地に広島を挙げた。
91年4月に大統領としてまず長崎を訪問。ソ連崩壊を受けて12月に職を辞したが、92年は歓迎委員会(委員長・中曽根康弘元首相)の招きで妻ライサさんと共に来日し広島の地を踏んだ。
資料館を見学後、広島国際会議場での市民集会で演説。「『ノーモア・ヒロシマ』と警鐘を鳴らし続けてきた」と敬意を表し、「新しい世界秩序をつくるために、何年か後に大量殺りく兵器を最低限までに削減し、そしてその後、完全に廃絶すべきだ」と強調。「最も重要なことは、人間は連帯することである」と訴えた。
道筋は見えず
ただ、冷戦終結ごろに世界に計約6万発あった核兵器の廃絶の道筋は見えず、新たな地域紛争も起こっていた。90年8月にはイラクが隣国クウェートを侵攻。翌91年1月、米国主力の多国籍軍がイラクに空爆を始め、湾岸戦争に発展した。
イラクの侵攻直後、クウェート王室のサバハ家の一員でアジア・オリンピック評議会(OCA)会長のシェイク・ファハド氏の戦死が報じられた。94年の第12回アジア競技大会の広島開催決定に尽力したとして、広島市特別名誉市民に選ばれていた。
アジア競技大会の開催都市調査団の一員で84年に市を訪れた際は原爆資料館を見学し、原爆慰霊碑に献花していた。荒木武市長は「市民を代表して心から哀悼の誠を表します」と談話を発表。市では被爆者、市民による碑前での座り込みや市民集会など湾岸戦争の停戦を求める動きが相次いだ。(編集委員・水川恭輔)
(2025年5月14日朝刊掲載)