[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1994年11月 被爆者援護法
25年5月15日
政府案「国家補償」なく
1994年11月22日。この日国会に提出された「被爆者援護法」の政府案に抗議する被爆者たちが、広島市中区の平和記念公園で原爆慰霊碑前に座り込んだ。原爆医療法(57年施行)と、被爆者特別措置法(68年施行)の二法が一本化。前文には「国の責任」で「被爆者に対する保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護対策」を講じると記されていた。
被団協は反発
新たな対策も盛り込まれたが、日本被団協は強く反発した。「被爆者が長年求めてきた国家補償の援護法とは大きく隔たり、極めて遺憾」(同日発表の斉藤義雄事務局長の談話)
野党時代の社会党が推進し、廃案や撤回を繰り返した「援護法」が、実現へ新局面を迎えたのは93年12月。非自民党の細川護熙(もりひろ)内閣を支える社会党などの与党がプロジェクトチーム(PT)を設けた。
焦点は、被団協が要求する「国家補償」に応えるかどうかだった。国が始めた戦争による被害への償いとしての援護を求め、放射線の健康被害にとどまらない心身の痛苦や、犠牲者の遺族への補償を訴えていた。空襲をはじめ、ほかの戦争被害への補償の足がかりにする目的もあった。
法案への「国家補償」の明記は、まさにさらなる補償問題への発展を恐れる国側の意向を背景に後退する。自民、社会党などによる村山富市内閣発足後の94年7月のPTは「国家補償の精神」と記す法案大綱を示すが、やがて「国家補償的配慮」と修正。10月に与党の「戦後50年問題PT」へ議論が移ると自民党は「国家の責任」とする案を示し、最終的に政府案の表現になった。
前文には「放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることにかんがみ」と書かれ、放射線の健康被害に苦しむ被爆者の救済を目的とする旧二法の枠組みをおおむね引き継いだ。被団協が被爆死への弔慰金を求める中、原爆で家族を亡くした人への「特別葬祭給付金」として10万円の支給を新たに盛り込んだ。
「大きな矛盾」
ただ、国はそれも本人の被爆と家族の死とが重なった「二重の犠牲」を対象にした「生存被爆者対策」とし、支給は被爆者健康手帳を持つ人に限った。自らは被爆を免れたが、家族を失った孤児のような被害者はこぼれ落ち、被団協は「大きな矛盾を持ち込んだ」と批判した。
国会提出後の11月30日に広島市で開かれた公聴会では、参加者から疑問が相次いだ。当時55歳の森滝春子さん(86)=佐伯区=は傍聴席にいた。被団協の初代代表委員を務め、核兵器廃絶と国家補償の援護法制定を訴え続けた父市郎さんをこの年の1月に92歳で見送っていた。「援護法は被爆者の長年の闘いの結果として、あるべきものではなかったと思いました」
市郎さんと活動を共にした広島県原水禁代表委員の金子哲夫さん(76)も同様だ。「森滝先生が生きていたら、まやかしだと思ったでしょう」
一方で、健康管理手当など諸手当の所得制限が撤廃されたほか、広島、長崎両市に慰霊施設を設ける事業なども記され、被爆者の中には前進と感じた人もいた。政府、与党は修正に応じず被爆者援護法は12月に成立した。与党社会党の中でも、広島県からの選出者たちは反対した。(下高充生)
(2025年5月15日朝刊掲載)