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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1995年1月 被爆資料の米国展示

正当化論根強く 中止に

 1995年1月31日。米国の首都ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館から広島市にファクスが届いた。博物館は前日、市に貸与を求めて計画していた被爆資料の展示について取りやめを決めており、貸し出しは不要との連絡だった。

 原爆資料館の館長で当時55歳の原田浩さん(85)=安佐南区=は6歳の時に被爆した。「被爆体験がどれだけ悲惨かを認識することからスタートするべきなのに50年たっても、これかと」。原爆投下の正当化論の根強さを痛感した。

 被爆資料を貸してほしいと、博物館のハーウィット館長が市を訪れて正式に要請したのは、93年4月5日。原爆投下から50年となる95年に関連の展示会を計画し、「広島の苦しみを伝える」として、原爆を投下した米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイ号の機体前部の展示などと合わせて並べたいと考えていた。

 市は「原爆の威力を誇示し、投下を正当化しかねない」として、回答を保留。米国では原爆投下を「戦争終結を早め、多くの人命を救った」と捉える正当化論があった。

館長が式典に

 博物館側は犠牲者の遺品に関心を示したが、原田さんは「本当に展示できるのかという疑問が率直な思いだった」と振り返る。「8月に広島の思いを感じとるべきだ」と伝えると、ハーウィット館長は家族と平和記念式典に参列し、原爆供養塔も訪れた。

 市は、博物館が展示に被爆地の意見や助言を受け入れる意向を示した点などを考慮。93年11月、「人類共通の遺産」(平岡敬市長)として資料貸し出しに応じると発表した。

 ただ、やりきれない思いを抱く遺族もいた。博物館が貸与を求めた12点のうち1点は13歳で建物疎開作業に動員されて被爆死した折免滋さんの「黒焦げの弁当箱」。寄贈した母シゲコさん(96年に88歳で死去)は資料館に電話をかけてきたという。「まだ米国に対して許せん気持ちを持っとります。滋を敵国で見せ物にするのはやめてください」

論争へと発展

 「気持ちは痛いほど分かる」と原田さん。別の弁当箱の貸し出しも考えた。一方の米国では、展示台本が具体化するにつれ、退役軍人や一部国会議員から強い反発が噴出した。「エノラ・ゲイの名誉を汚す」「日本の残虐行為は無視」…。逆に「原爆投下は必要なかった」と唱える研究者たちが計画変更に反対するなど、論争へ発展した。

 94年9月に上院が「エノラ・ゲイは、第2次世界大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、日米両国民の命を救った」と決議。展示台本は「多くの従軍兵士にとって侮辱的」とした。被爆資料の展示中止の決定は、その4カ月後。95年6月から、機体の一部と説明資料が並ベられた。

 市は被爆の惨禍が「勝者の歴史」に覆い隠されないよう、米国をはじめ世界への発信を続けた。95年7月には米アメリカン大の原爆展に協力。8月6日には米ワシントン・ポスト紙に「広島と長崎で実際に起きたこと、そして核兵器の残酷さを世界に知ってほしい」と呼びかける意見広告を載せた。

 核兵器の使用・威嚇を審理する初の「世界法廷」にも長崎市とともに被爆地の訴えを届ける。(編集委員・水川恭輔)

(2025年5月16日朝刊掲載)

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