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連載・特集

「ヒロシマの記録―遺影は語る」から 「戦死」 広島二中 <1> 米寿を迎え

悲しき自問自答、今なお

 広島市中区の平和記念公園西側を流れる本川左岸に一つの歌碑がある。「なぐさめの 言葉しらねば ただ泣かむ 汝(な)がおもかげと いさをしのびて」。少年たちは一九四五(昭和二十)年八月六日、碑のある場所で被爆し、全滅した。広島県立広島第二中学校(現・県立広島観音高校)の一年生たちである。少年たちに「戦死」を強いた時代と、その軌跡を追う。(西本雅実・野島正徳・藤村潤平)

「長生きしんさいよ」

 広島湾を望む、安芸郡坂町に住む北本マサヨさんは来月に八十八歳の米寿を迎える。「あの子が残した言葉を、今も思うんですよ」。広島二中一年生だった長男邦彦さんの最期の言葉は、「お母さん、長生きしんさいよ」。四五年八月九日午後九時、両親にみとられて息を引き取った。十三歳と一カ月だった。

 「生きていれば何になっていたですかねぇ…。あのころは、国じゅうが命は惜しゅうないという雰囲気になって、邦彦もそうでした。教育のせいでしょうねぇ」。日当たりのよい部屋で穏やかに言葉を紡いだ。

 六日朝、前夜から警戒・空襲警報が鳴り続いたのを心配する母に、息子は「お国のために死んだら靖国神社に祭ってもらえる」と笑顔でこたえ、出掛けたという。現在は平和記念公園となった、旧中島新町一帯での建物疎開作業に学徒動員されていた。

惨劇話し続けた息子

 東に約十三キロ離れる当時の坂村でも、中島から不気味にわき上がったきのこ雲が見えた。すぐに近所の人のトラックに乗り、広島駅からは炎を突いて歩き、中島東側の八丁堀まで入った。翌七日は、南区の陸軍船舶司令部で被爆して戻った夫の政一さん(九四年死去)と漁船で向かった。「ござと帯を持っていきました。生きとるとは思わんじゃったです」

 それだけに七日昼、知人に運ばれて自宅に帰っていたのを目にすると、顔がろう人形のようにはれた息子を力いっぱい抱きしめた。息子も泣きながら、せきを切ったように話した。

 本川べりに集合していたら、頭上に落ちてくる爆弾が見えたこと。飛び込んだ川の中は湯のように熱かったこと。救助兵に引き揚げられ、広島湾沖合の金輪島で一晩過ごしたこと…。その間、体から出る便は、腸まで焼けていたのか、焦げたにおいがした。

 「飛行機の爆音が聞こえると蚊帳の中で体を震わせましたが、死ぬるまでようしゃべりました。そして最期に『お母さん、長生きしんさいよ』と言って死にました」。畑に穴を掘り、敵機に煙が気付かれないよう遺体を火葬したという。

「勲八等」にむなしさ

 動員中に亡くなった学徒たちは、五二年制定の戦傷病者戦没遺族等援護法で「準軍属」となり、軍人・軍属に続き、東京・九段の靖国神社へ合祀(ごうし)されている。

 広島二中の遺族たちが持つ合祀の記録は「昭和三十八年十月十七日」。その七年後には「勲八等」が国から遺族に伝達された。

 北本さんも、役場を通じて勲記を受け取った。小さなメダルを手にすると、「何かお示しみたいで、むなしい」気持ちに駆られた。

 「年端のいかない子どもが、建物疎開の後片付けに行って殺されたんです。あの日、行かさなんだら…。でも、邦彦は国のために命を尽くしたいと、あれで、止めないでよかったんでしょうねぇ…」。孫十一人にひ孫五人を持つようになっても、母の悲しみをたたえた問い掛けは重く沈んだ。

 冒頭の歌の作者は、原爆投下時に広島二中の校長だった故・古田貞衛氏。

(1999年11月19日朝刊掲載)

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