×

ニュース

三良坂 つなぐ8・6 <上> 百日紅

■記者 桜井邦彦

会報と体験談 2世へ

 1986年の非核平和自治体宣言をスタートに、平和への活動を強めた三良坂町(現三次市)。関係者の代替わりは進んだが、市町村合併をした今も、被爆者や市職員らを中心に、地道な取り組みが続いている。三良坂の現状を探った。

 公園や庭先に咲くサルスベリの花。それは三良坂町の被爆者にとって、原爆の日を思う風景の一つ。

 原爆の被害者もこのように、力強く元気で美しくあるよう願い名づけた―。三良坂町原爆被害者の会が76年6月に発刊した会報「百日紅(さるすべり)」に、当時の会長藤川一人さんが思いを記している。

 会報は5年前の市町村合併後、三次市原爆被害者協議会(時丸卓爾会長)へと引き継がれ、7月6日付で103号。市内各町の被爆者が体験談をつづったり、会員が聞き取って代筆したりしてきた。今は年2回、千部を発行する。

 「先が短いけえ、何か残しとかんと。これも記録。生きとる間にやらにゃあいけん」。百日紅を編集する三良坂町の田口健三さん(79)は力を込めた。

 発刊から33年。藤川さんは昨年亡くなり、当時約270人いた三良坂の会員は、半数以下の約110人に。田口さんの心に、伝えることへの使命感と焦りが交錯し始めた。

 田口さん自身に、伝えたい思いが芽生えたのは最近。「被爆者であることを言いたくなかった」。88年まで被爆者健康手帳を取得しなかったのも、それが理由。同じように、体験を封印してきた仲間も少なくない。

 田口さんは15歳のとき、金輪島(南区)で旧陸軍船舶司令部(暁部隊)の鉄線工として働いていて被爆。熱線に焼かれて運び込まれる被爆者や、負傷者の傷に群がるウジが今も脳裏から離れない。

 「怖いもの。原爆も戦争も繰り返さないよう伝えねば。年を拾うた今じゃから思う」。田口さんは5、6年前から、地元の小中学校で何度か証言。最近は手記もしたためた。

 「2世が一役担うことが大事。忘れ去られてはいけないから」。傍らにいた長男正行さん(52)が言葉をつないだ。10年前、三良坂では二世の会が市町村単位で初めて発足。正行さんは「2世なりの伝え方で残したい。会報の記事にも加わっていこうと思う」と言う。

 健三さんは「平和な日本では、その意味が分からなくなっている時代。わしらの思いも会報編集も継いでいってほしいんじゃ。2世に」と願う。

三良坂町原爆被害者の会
 1954年8月6日、原水爆禁止運動の強化と被爆体験の継承、会員の健康管理などを目的に、町中央公民館で発足した。当初の会員は35人余り。三次市との2004年の合併に合わせ、市原爆被害者協議会に参画した。

(2009年8月2日朝刊掲載)

 

年別アーカイブ