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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1996年12月7日 原爆ドームの世界遺産登録

後世に 官民の運動実る

 1996年12月7日。原爆ドーム(広島市中区)が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の委員会決定を受け、世界文化遺産に登録された。広島の官民による取り組みが実り、核兵器廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける「人類共通の記念碑」となった。

 「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」に加わった広島県原水禁の当時の事務局次長、金子哲夫さん(76)は「市民によるドーム保存運動に始まり、その延長線上で遺産化を達成できた」との実感を抱く。賛同署名を求め、街頭にも立った。

 国会が世界遺産条約加盟を承認して3日後の92年6月22日。平岡敬市長は市議会一般質問でドームの登録に関し「国際社会全体の遺産として後世に残していく必要がある」と述べた。国の推薦リストに載るよう働きかける考えを示した。

署名活動開始

 市議会も9月に全会一致で意見書を採択して後押し。ただ、国はドームが文化財保護法の指定を受けておらず、文化財としても歴史が浅いとして難色を示した。

 その中で、県民一丸の運動を呼びかけたのが連合広島だった。「すすめる会」結成を模索し「連合広島の政治的活動として誤解されないよう最大の配慮をした」(当時の森川武志会長の回顧)。93年6月の結成総会には県被団協や県原水禁、県医師会、広島弁護士会など13団体の約200人が参加。100万人を目標に署名活動を始めた。

 「人類の共有財産として永く保存し、世界の恒久平和の基にしたい」と記したビラを刷り、街頭で活動。町内会や学校へも輪が広がり、広島を中心に全国から署名が寄せられた。ドームでの死没者の遺族も協力した。

 「54年の原水爆禁止署名をほうふつとさせた。被爆50年近くたっても忘れられない惨禍の記憶や核兵器廃絶への願いが賛同を広げた」と金子さん。開始3カ月で100万筆を超えた。署名を添えて世界遺産化に向けた請願を衆参両院に出すと、94年に採択。95年に国史跡となり、世界遺産委員会へ推薦された。

 次のハードルは世界遺産委員会だった。外務省出向中の市職員を含め、政府担当者たちは構成国へ働きかけを強めた。賛成できないという米国とは、審議中に意見表明しないよう水面下で調整。メキシコ・メリダ市での委員会開始後、米国の不支持が報じられたが、結局、採決を黙認した。

米国は不支持

 当時の担当者の一人は「もっと早く報道が出ていたら遺産化は難しかったかもしれない」と外交交渉の難しさを振り返る。米国は登録決定後に「日本とは友好関係にあるが、今回の決定は支持できない」とした。中国も賛否を留保した。

 両国がともに問題視したのは、第2次世界大戦に対する日本の歴史認識だった。91年の平和宣言などで日本による過去の植民地支配や戦争についてアジア・太平洋地域の人々への謝罪の言葉を口にしていた平岡市長は、決定時の記者会見で「核兵器の使用を認める論理は許してはならないが、日本は戦争の加害も認識せよという警告は受け止める」と述べた。

 90年代は、ドームのみならず老朽化が進む被爆建物の保存を求める声が高まった。市の委員会が総合記録書の作成を提言し、建築や物理の専門家たちの「被爆建造物調査研究会」が発足。原爆資料館と協力して3年がかりで市内の被爆建造物を調べ108件の現存を確認した。市の被爆50年事業の一環で資料集「ヒロシマの被爆建造物は語る」(96年刊)にまとめた。(山下美波)

(2025年5月19日朝刊掲載)

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