[ヒロシマドキュメント 1946年] 5月17日 復興顧問に米軍中尉
25年5月17日
1946年5月17日。広島市の復興顧問に米軍中尉のジョン・モンゴメリーさんが就き、市役所であった復興審議会に出席した。市が進駐軍に支援を求めたのを機に任じられた当時26歳の若者は大学で都市計画を専攻していた。同日付本紙は「恩讐(おんしゅう)の国境越え 引受けた指導役」と伝えた。
木原七郎市長は審議会で「本市の復興に寄与されること多大であると思ふ」(以下、市公文書館所蔵の議事録)と紹介。英連邦軍からも軍医で少佐のハービン・サテンさんが加わった。
議論ではすでに平和記念施設を造る案が出ており、「爆心地を残す」との意見に対し、モンゴメリーさんは建物の状態を危惧しつつ「保存したいものである」と共感。「物産陳列館を整備し、(被爆に関する)資料を備える」よう提案した。
翌日には自ら連合国軍総司令部(GHQ)に書簡を送り、原爆被害に関する記録書類などを利用できないか打診した。呉市の駐屯地から毎日のように広島市内に通い、事務的な会議にも出た。
モンゴメリーさんは米ミシガンの地域計画顧問を務めた経験があった。広島市の復興顧問就任については「私はその任命に自発的に従った」(86年刊の著書)。広島がどのように再建されるか関心を抱いていた。
ただ、在任期間はわずか1カ月ほどだった。帰国前の本紙のインタビューでは、「協力一致して世界の平和都市広島の建設にまい進されんことを希望する」と語った。
帰国後も市とのつながりは途切れず、後の市長の浜井信三さんによると「平和祭のときには、きまって電報でメッセージを送ってくれた」(67年の著書「原爆市長」)。ハーバード大など米国内の大学で教壇に立ちながら、たびたび広島を訪問。99年には広島平和記念都市建設法の制定50年に合わせて市が開いたシンポジウムに招かれ、講演した。(山本真帆)
(2025年5月17日朝刊掲載)
木原七郎市長は審議会で「本市の復興に寄与されること多大であると思ふ」(以下、市公文書館所蔵の議事録)と紹介。英連邦軍からも軍医で少佐のハービン・サテンさんが加わった。
議論ではすでに平和記念施設を造る案が出ており、「爆心地を残す」との意見に対し、モンゴメリーさんは建物の状態を危惧しつつ「保存したいものである」と共感。「物産陳列館を整備し、(被爆に関する)資料を備える」よう提案した。
翌日には自ら連合国軍総司令部(GHQ)に書簡を送り、原爆被害に関する記録書類などを利用できないか打診した。呉市の駐屯地から毎日のように広島市内に通い、事務的な会議にも出た。
モンゴメリーさんは米ミシガンの地域計画顧問を務めた経験があった。広島市の復興顧問就任については「私はその任命に自発的に従った」(86年刊の著書)。広島がどのように再建されるか関心を抱いていた。
ただ、在任期間はわずか1カ月ほどだった。帰国前の本紙のインタビューでは、「協力一致して世界の平和都市広島の建設にまい進されんことを希望する」と語った。
帰国後も市とのつながりは途切れず、後の市長の浜井信三さんによると「平和祭のときには、きまって電報でメッセージを送ってくれた」(67年の著書「原爆市長」)。ハーバード大など米国内の大学で教壇に立ちながら、たびたび広島を訪問。99年には広島平和記念都市建設法の制定50年に合わせて市が開いたシンポジウムに招かれ、講演した。(山本真帆)
(2025年5月17日朝刊掲載)