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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1998年1月 インドで原爆展

盛況の一方 地下核実験

 1998年1月30日。広島、長崎両市がインドで初めて企画した原爆展が、大都市ムンバイで始まった。被爆死した動員学徒の遺品の学生服や、原爆写真、爆風で砕けたガラスの破片などを展示。核拡散防止条約(NPT)に加盟せず、核開発の姿勢を示す国で被爆の惨禍を伝えた。

館長が初証言

 前年4月に広島の原爆資料館長に就いた畑口実さん(79)=廿日市市=が現地入り。大学生を前に家族の被爆を話した。「初めての証言でした。館長になるまで被爆者だと周囲に明かしていませんでしたから」

 原爆投下時、畑口さんは母のおなかの中にいた。母は廿日市市の自宅から父を捜して入市被爆。爆心地から約1・8キロの広島鉄道局(現南区)に勤めに出ていた父は犠牲になった。長く墓に納めていた遺品で、短針が8時を指したまま文字盤に焼き付いた懐中時計とバックルを見せ、原爆の恐ろしさを伝えた。

 「終わると多くの学生に囲まれ紙切れにサインを求められました。遺品や証言、広島の力を感じました」。行く先々では現地の報道機関が待ち構えていた。展示は約3週間で5万人が来場。4月からの首都ニューデリーでの展示も多くの人が来場し、5月10日までの会期を15日まで延ばした。

 そのさなかの11日、インド政府は地下核実験に踏み切る。核実験は24年ぶり。バジパイ首相は「インドは既に核兵器保有国家だ」と公言し、13日にも実施した。突きつけられた現実に、畑口さんは「なぜ原爆展を無視するのか、展示にどこまで効果があったのかと、ショックを受けました」。

 さらにインドとの領土問題を抱え、同じくNPT未加盟の隣国パキスタンも28日に初の核実験をした。シャリフ首相は記者会見で動機の一つを「広島、長崎の二の舞いになりたくなかった」と語り、核には核で対抗する姿勢を鮮明にした。30日にも繰り返した。

急きょ派遣団

 広島からは抗議が相次ぐ。広島県原水禁は両国に緊急派遣団を送り、当時65歳で安芸区に住む武田靖彦さん(2011年に78歳で死去)が加わった。旧制修道中1年の時に被爆。女学生で動員先の軍需工場に向かう途中だったとみられる姉素子さんを亡くしていた。

 40代の頃から「原爆の絵」を描き、会社を定年後は核実験に反対するためフランスへ飛んだことも。ただ、長女の榎並由美さん(62)=安芸区=によると、98年ごろは肝硬変や心臓病を患い、家族はインド、パキスタンへの渡航に反対した。

 武田さんを駆り立てていたのは姉や同級生の無念だった。「素さんは何のためにこの世に生まれてきたのか、十六才と六カ月という短い生涯で、旅行もせず、おいしい物を腹一杯食べたことも、きれいな衣服を着たこともない」(13年刊の「ヒバクシャからの手紙」)

 大量の薬を携えて現地に向かい、姉の最期の様子や同級生の死を証言した。「核開発に警鐘を鳴らさねばという父の執念でした」と榎並さんは言う。

 両国の駐日大使は98年8月6日、広島市の平和記念式典に出席した。平岡敬市長が平和宣言で核実験への「激しい憤り」を表明。原爆資料館で大使たちを案内した畑口さんは「非常に残念だった」と伝えた。反応は得られなかったという。

 全米科学者連盟の今年3月時点の推計でインドは180発、パキスタンは170発の核を保有。領土問題の対立も続く。(下高充生)

(2025年5月20日朝刊掲載)

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