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連載・特集

「ヒロシマの記録―遺影は語る」から 「戦死」 広島二中 <5> 河岸の碑

被災の全容 いまだ不明

優しく弟の名なでる

 「ここに来ると、いつも名前をなでてやるんです。今日生きているのは、弟の寿命をもらったのだと思います」。広島市中区の平和記念公園本川左岸にある広島二中慰霊碑。刻まれる名前に人さし指を当てた姉の目は潤んでいた。岡山市に住む小南万亀子さん(71)。穏やかに晴れた十九日、元小学校長の夫勲さん(76)と連れ立って訪れた。年に一度は必ず参るという。

 碑には、最期をみとった弟松永洋さん=当時(12)=と、西観音町二丁目にあった校舎の下敷きとなった父松永高三さん=当時(43)=が刻まれる。教頭だった父は二中東寮の舎監長を兼務していた。十六歳の万亀子さんは、官舎から通学していた宇品町の広島女専(現・広島女子大)で被爆した。

 「寮に戻ると、弟は顔が分からないほどやけどをして、ほかの生徒さんと外に寝かされていました」。深夜、息がまだある生徒を木炭トラックで北西十五キロ先の広島県佐伯郡平良村(廿日市市)へ移すことになる。乗り込む直前に、運転する教師から「実は…」と、父の死去を知らされた。

 弟は運ばれた村役場で翌朝、「お父さんは?山本先生(学級担任)は?」と尋ね、「お姉ちゃんありがとう」の言葉とともに息を引き取った。

国立の祈念館建設へ

 小南さんは、父と弟の死から五十年後の一九九五年に施行された被爆者援護法に基づく国からの特別葬祭給付金すべてを、碑を預かる県立広島観音高に贈った。支給対象は、被爆者健康手帳を持つ生存遺族だけであった。父の郷里岡山県に疎開していたため手帳のない遺族である妹と、官舎で被爆して十五年前に亡くなった母の思いを込めた。

 その被爆者援護法に定めた、もう一つの柱の事業が平和記念公園内で近く始まる。「原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め(略)原子爆弾の死没者に対する追悼の意を表す事業を行う」(第四一条)という、国立の「原爆死没者追悼平和祈念館」の建設である。

 祈念館には、厚生省が四年前の被爆者実態調査で記述欄に求めた八万九千件の手記を収め、公開する。高さ八メートル、直径十八メートルの吹き抜けの追悼空間は、原爆投下後、四五年末までに亡くなったと広島市が推計する「十四万±一万人」を点で表し、被爆後の光景をパノラマで再現するという。二〇〇二年に開館する。

 死没者の追悼をうたいながら「±一万人」もの大幅にぶれた推計値でしかないのは、国がこれまで一度として原爆被災の全体像をつかんでいないからだ。国の命令による動員学徒の被爆死数すらはっきりしない。

「忘れてはならない」

 「四十校、五千七百三十五人」。五二年の戦傷病者戦没遺族等援護法の制定で各校が作成し、広島県社会福祉課に残っていた「動員学徒死没者名簿」つづり三冊に記される総数だ。広島二中は「三百十八人」とある。遺族や学校の手でさらに調査がなされ、六一年建立の碑は生徒三百四十四人を刻む(うち二人は健在)。

 父と弟の、おびただしい死没者の、名前をたどりながら、小南さんは問わず語りにこう述べた。「これだけの人が一度に亡くなるような、あのような時代は…。原爆のことは忘れてならないと思います。またそうであってほしいと思います」

 戦争が、原爆が奪ったのは、あくまで一人ひとりの命である。(西本雅実・野島正徳・藤村潤平)=おわり=

(1999年11月24日朝刊掲載)

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