2000年原爆忌 「あの日」伝える使命 動員先の殉職碑に名…でも生き抜いた。 広島の明﨑さん・斎藤さん、55年ぶり再会果たす
00年8月7日
爆心地に自宅と家族失う
原爆のさく裂直下となった広島市細工町(中区大手町一丁目)の広島郵便局に学徒動員され、死んだとみられていた男性二人が六日、自らの名前が刻まれる慰霊碑前で五十五年ぶりに再会し、健在を確かめ合った。互いに家族を奪われた「あの日」からを生き抜き、今、身を持って知る平和の尊さを孫たちに語られる日々を迎えた。
広島市南区仁保南一丁目に住む明﨑将良さん(68)と、安佐北区口田南九丁目の齋藤隆重さん(68)。二百八十八人の職員や学徒の死没者を刻む「広島郵便局原爆殉職者之碑」がある南区比治山町の多聞院を訪ねた二人は、本川国民学校(現・本川小)高等科二年に在学中、学校近くの広島郵便局に動員された。原爆が投下されることになる一九四五年の早春のころ。十三歳だった。
「お国のためと腹をすかしながらも、一生懸命に働いたものですよ」。明﨑さんが言えば、齋藤さんは「小さな体に大きなカバンを肩掛けして歩き、小包は赤い色の大八車で運びました」。いずれの自宅も爆心地から、わずか五百メートルにあった。
明﨑さんは、配置換えとなった広島鉄道局第二機関区で朝礼中に被爆し、中区本川町二丁目で暮らしていた父や兄、祖母を失った。「知った人はおらんかと郵便局跡にも通ったけど、だれにも会えませんでした」
齋藤さんは、伯父とたまたま岩国市の知人宅を訪ねていた。平和記念公園となった旧材木町の自宅には親代わりの伯母や姉ら四人がいた。「翌日、川面を流れる死体に足をすくませながら、自宅跡に向かいました」
被爆後、二人は生きるために学業をあきらめた。広島郵便局の「殉職者」になっていることは、この春に中国新聞の取材を受けるまで知らなかった。「雨露にも耐えてご苦労しとる碑に、どうこう言う気はないです」と明﨑さん。再会を終えると、齋藤さんはハンカチで目頭をじっと押さえた。「碑にある名前は、いろんな時代と人生を生きてきたあかしだと思います」
共に会社勤めを退き、子ども家族と三世代同居する。今度は孫たちを連れ、碑に込められたヒロシマの歴史を話すつもりだ。
(2000年8月7日朝刊掲載)