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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1999年8月 カザフ訪問団

核被害者を市民が支援

 1999年8月。広島の市民11人が、旧ソ連最大の核実験場があったカザフスタンに入った。市民団体「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト(ヒロセミ)」の初の訪問団。セミパラチンスク市(現セメイ市)など現地の被曝(ひばく)者支援が目的だった。

 「放射線の影響を知る広島から支援を届け、連帯を深めたかった」。入市被爆した母を幼い頃に亡くした佐々木桂一さん(70)=広島市安佐北区=は核被害を人ごとと思えず、一員に加わった。

ア大会が契機

 活動のきっかけは94年の広島アジア競技大会。市内の公民館が国・地域を分担して応援した「一館一国運動」で、鈴が峰公民館(西区)がカザフスタン選手団を受け持った。大会後も、住民がセミパラチンスクを訪れるなど交流。発展し、98年にヒロセミを結成した。

 四国とほぼ同じ広さのセミパラチンスク核実験場では、ソ連が49年8月に初めて核実験。米国との核軍拡競争が続いた冷戦下、89年までに450回以上繰り返した。ソ連が崩壊した91年に閉鎖されたが、長年にわたり広範囲に放射性物質の「死の灰」が降り注いだ。

 周辺住民は健康被害を訴え、医療機関や科学者は白血病やがんの多発、先天性異常がある子どもの増加を報告していた。一方でソ連崩壊とともに誕生したカザフスタンは当時経済的に困窮して医療水準は低く、交通手段の整備も遅れていた。佐々木さんは「病院の薬棚に薬がなく、検査機器も旧ソ連製で精度が低くて」と振り返る。

 ヒロセミは、寄付金などを元手に巡回検診用の車、医薬品など総額約1200万円の物資を現地の医療機関に贈った。市長を退いた平岡敬さん(97)=西区=が「一市民としてボランティアを実践したい」と活動に加わり、訪問団長に就いた。

 一行はセミパラチンスクに約1週間滞在。市長と懇談し、「21世紀は核実験や戦争がない世紀にしなければならない」と連帯への期待を寄せられた。初の核実験の爆心地を視察し、被害者や研究者と意見交換。市内の川で灯籠流しも。同時期、広島、長崎両市による原爆展が開かれ、多くの市民が訪れていた。

 その後もヒロセミは医師や若者を派遣し、医薬品などを贈った。2000年からは山陽女学園高等部(廿日市市)への留学生の受け入れを仲介した。1期生の一人、アケルケ・スルタノバさん(41)は「広島の市民の平和に対する特別な思いが印象的でした。当時のセミパラチンスクは、自身の生活や健康のことで精いっぱいでしたから」。

 幼い頃に「地震のような不気味な揺れ」を何度も感じ、実験場近くの村出身の母から「きのこ雲を見た」と聞いた。親戚に5歳ほどで体の成長が止まった女性がおり、周囲は「ポリゴン(実験場の通称)のせいだ」。やがてアニメ「はだしのゲン」で意味を理解した。

「広島と連携」

 「セミパラチンスクのことを世界に伝えたい」と、父が新聞で見つけた1年間の留学生募集に申し込んだ。広島で原爆の惨禍に触れる一方、学校での講演会などで核実験被害を伝え、08年に入学した一橋大大学院でも修士論文にまとめた。

 母国は経済発展し、市民の平和への意識も高まったと感じる。「核兵器使用の危機が高まっている今、広島とセミパラチンスクの市民が連携し、核の恐ろしさを伝えないといけない」。現在はトルコに住み、核被害者の救済や市民交流に取り組む。(山下美波)

(2025年5月21日朝刊掲載)

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