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[ヒロシマドキュメント 1946年] 5月 学校焼け跡で青空教室

 1946年5月。広島市の幟町国民学校(現中区の幟町小)の児童たちが「青空教室」で学んでいた。被爆後に間借りしていた施設で復旧工事が始まったため、爆心地から約1・1キロの焼け跡に戻らざるをえなかった。

 英連邦占領軍記者のステファン・ケレンさんが当時の様子を撮影している。がれきが転がる中で、2年生の児童約20人が教科書やノートもなく、教員と向き合った。

 3列目中央からカメラを見つめるのは蔵田健吾さん(86)=中区。「校舎の基礎枠の中に、机代わりに運んだ石炭やミカンの箱があるだけでね」。遮るものが何もない学びやは、天候にも左右されたと記憶する。

 木造2階建て校舎は原爆で全壊全焼。学校は、学区内で焼け残った広島中央放送局(現NHK広島放送局)を仮の教室にし、10月に授業を始めた。しかし復旧工事が始まったため、年明けに袋町(現中区)の広島中央電話局へ移転。そこも同様の事情で使えなくなった。

 青空教室で授業を続けるとともに、傍らでバラック校舎の建設を開始。7月に平屋の10教室が完成する。引き揚げや市外から転入する児童も増えて教室は常に不足し、午前と午後の二部授業に。校庭は食糧不足をしのぐ芋畑になっていた。

 蔵田さんは親族と安芸津町(現東広島市)にいて被爆を逃れたが、8人きょうだいのうち2人を亡くした。46年3月に橋本町(現中区)の自宅跡にバラックを建てて戻り、両親はなりわいの金物店を再開した。「やっと自由に遊べるようになった」と思い返すのは、現在地に校舎が建つ49年だった。(山本真帆)

(2025年5月21日朝刊掲載)

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