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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2002年8月1日 追悼祈念館開館

遺影や体験記 保存・公開

 2002年8月1日。広島市中区の平和記念公園に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館した。原爆資料館などを設計した丹下健三さんの事務所が手がけた鉄筋の地上1階地下2階建て。原爆死没者の名前や遺影を遺族たちの申請を受けて登録し、同じく収集対象の原爆体験記とともに保存・公開を始めた。

 目的は、「原子爆弾死没者を心から追悼するとともに、その惨禍を語り継ぎ、広く内外へ伝え、歴史に学んで、核兵器のない平和な世界を築く」(入り口の銘文)。地下2階には、被爆で壊滅した街をタイルで表した追悼空間を設けた。1945年12月末までの推定死亡者数に合わせ約14万枚を使った。

 追悼施設は、弔慰金支給など原爆死没者の遺族への補償策に否定的な政府が、「一般戦災者等との均衡の問題に波及しない範囲の弔意の表し方」(90年5月の海部俊樹首相の国会答弁)として検討。94年成立、95年施行の被爆者援護法に、設置が明記された。

説明文で論争

 その後、具体化が進むと追悼空間に向かうスロープに掲げる説明文を巡り論争が起こる。厚生労働省は01年7月、村山富市首相が95年に発表した戦後50年談話の一節を引きながら「国策を誤り戦争への道を歩みました」と記す文案を作成。だが、有識者たちが参加した開設準備検討会で「主観的だ」などの意見が出ると、「不幸な戦争への道を歩みました」に修文した。

 これに、二つの広島県被団協など広島の被爆者7団体が反発。惨禍を繰り返さぬためには、日本の戦争への反省が必須との立場から、「『国策を誤り』の一節は不可欠。受け入れられない」と国へ申し入れた。

 広島被爆者団体連絡会議事務局長の近藤幸四郎さんは、7団体のまとめ役として特に強く訴えた。「死者を悼む気持ちが平和運動の始まり」(00年6月28日付本紙)。自身も動員学徒だった兄を原爆で失った。

 国は最終的に「誤った国策により犠牲となった多くの人々に思いを致しながら」とし、近藤さんは「国策を誤ったと文字で残し、平和を誓う意義は大きい」と評価。ただ開館まもない02年8月21日に69歳で亡くなり、訪問はかなわなかった。

風化感じ執筆

 館内には、遺族が公開に同意した遺影を映す大型モニターや検索端末を設置。体験記は95年の被爆者実態調査に合わせて国が募集して寄せられた8万編余りを公開し、新たな呼びかけもした。

 旧制修道中3年で原爆に遭った玉川光昭さん(95)=南区=も手記を02年に書いて寄せた。友人の誘いをきっかけに、動員先の広島陸軍兵器補給廠(しょう)(現南区)での被爆体験や、犠牲になった近所の同じ年頃の子どもたちの記憶をつづり、A4判34枚に及んだ。

 それまで体験を語ってこなかったが、記憶の風化を感じながら筆を執った。「原爆を体験した人間は極めて限られている。しかも年々その数は減少しそれと共に記憶も忘れ去られて行く(中略)世界各国は相変わらず核兵器の開発に狂奔し、核戦争の危機すら叫ばれている」(手記)

 祈念館は今月20日時点で死没者2万8506人の名前や遺影を登録。体験記15万937編を収蔵する。長崎市の祈念館は03年に開館した。(下高充生)

(2025年5月22日朝刊掲載朝刊掲載)

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