[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2003年12月 エノラ・ゲイ復元機体展示
25年5月23日
原爆の被害 説明されず
2003年12月15日。広島県原水禁と日本被団協から派遣された被爆者たち7人の一行が、米ワシントン郊外のスミソニアン航空宇宙博物館新館を訪れた。真っ先に向かったのは広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイ号の展示。完全復元を終え、この日に一般公開が始まった。
説明板には「戦闘としては初の原爆を投下」と記す一方で、死者数など被害の記述はなし。当時78歳で県原水禁常任理事の坪井直(すなお)さんは機体をにらみつけた。「『こいつめ何をしでかしたんだ』という怒りが湧いた。被害の説明がない展示は欠陥品だ」
エノラ・ゲイを巡っては、博物館が復元した胴体前部など機体の一部を1995年6月から展示。当初は被爆資料も同時に並べる計画だったが、退役軍人や国会議員から「名誉を汚す」などと猛反発を受けて中止した。その後、機体全体の復元作業を続けていた。
被爆者ら憤り
03年8月に作業完了と新館での永久展示が発表されると、被爆者たちが憤った。12月の派遣団には日本被団協の代表委員も務める坪井さんのほか、被団協事務局長の田中熙巳(てるみ)さん(93)=埼玉県新座市、広島の被爆者で英語通訳の小倉桂子さん(87)=中区、被爆2世の角田拓さん(62)=東区=たちが参加した。
かつて原爆を積んだ機体は翼幅43メートル、全長30・2メートル。被爆した母から当時の惨禍を聞いていた角田さんは「誇るように展示する姿勢に恐ろしさを感じた」と語る。高齢の坪井さんをサポートするつもりだったが、気付けば、ショックのためかいすに座り込んでいたという。「『心臓の発作が起きそう』と」
機体前で抗議
地元平和団体が「NO MORE HIROSHIMA」などと機体前で声を上げ、派遣団の一行も抗議の輪に加わった。一般見学者から「帰れ。祖父は第2次世界大戦で殺されたんだ」とののしられ、一時騒然となった。
3日前の12日には博物館のベントン副館長と面会していた。被団協が集めた全国約2万5千人分の署名と、広島市の秋葉忠利市長のメッセージを渡して「原爆被害の実態を示す資料も展示を」と要請した。しかし「純粋に、科学技術が進歩した事実を展示するのが最良の方法」との返答で、方針は変わらなかった。
「核兵器は悪魔だと伝えたい」と渡米した坪井さんは、米国に根強い原爆投下の正当化論とともに米政府の政策も問題視していた。「被爆者を代表して言いたい。自らは核兵器を保有し、他国を核で脅す態度は間違っている。現在の一国独善主義を反省し、核軍縮へと政策転換すべきだ」
00年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、核保有五大国を含む加盟国が核兵器廃絶の「明確な約束」に合意。ただ翌01年9月11日に米中枢同時テロが起きると、米国はアフガニスタン空爆に続きイラク戦争を始めた。地下施設破壊などを目的とした戦術小型核開発の研究に着手し、使用を辞さない姿勢を明確にした。
一方、ロシアも03年10月に核兵器の限定的使用の検討を明記した軍事ドクトリン「ロシア軍近代化の指針」を発表。国防相から、00年に就任したプーチン大統領に提出された。被爆から60年となる05年のNPT再検討会議は最終文書に合意できず決裂する。(山下美波)
(2025年5月23日朝刊掲載)