[歩く 聞く 考える] 論説委員 森田裕美 治安維持法100年 「悪法」が今に伝える教訓は…
25年5月8日
人気作家柳広司さんの連作短編集「アンブレイカブル」は、戦前・戦中に実在した事件に基づく。小林多喜二らが登場しミステリー仕立てで物語は進むが、どうして彼らが追われるのか、まともな論理による謎解きは通用しない。なぜなら本書の主題が、理にかなわぬ「治安維持法」だからだ。
100年前、1925年5月に施行された。当初「国体」の変革を目指す共産主義者の結社を取り締まるとした法律は、「改正」を重ねて拡大解釈され、対象は自由主義者や宗教者、戦争に反対する者にまで広がった。特高警察による拷問やでっちあげも知られる。虐待などで命を落とした人もいる。敗戦を経て45年10月に連合国軍総司令部(GHQ)に廃止されるまで猛威を振るい、市井の人々の日常をも縛った。
「だれかがいちどばしっとやられると、正体不明の演出者の意図を敏感にさっするようになる」。神奈川県藤沢市の作家石浜みかるさん(84)が児童書「あの戦争のなかにぼくもいた」(92年)で、当時の世相を登場人物に語らせている。戦中、治安維持法で広島刑務所に服役した父義則さん(03~81年)と、母子で山口県周防大島に疎開した石浜さんの一家を描く。
神戸の歯科医だった義則さんは、教会を持たないキリスト教グループの伝道者だった。33年に神宮不敬罪を定めた旧刑法で、42年に治安維持法で投獄された。その不条理や「非国民の子」との偏見にさらされた子どもたち家族の苦境を、物語は伝える。
まさに「悪法」と戦争に振り回された人生である。義則さんは広島で服役中に被爆。一命を取り留めて釈放されたが、戦中に歯科医の免許は剝奪されており、戦後に免許を取り戻して、生活が落ち着くまで苦難は続いた。
そんな家族の記憶を、石浜さんが本にしたのは、40年前に国家機密法案が国会提出されたのがきっかけだったという。父と家族の生活を奪った治安維持法と二重写しになり「心臓を握られたような恐怖を感じた」と振り返る。
同法は廃案になったが、後に安倍晋三政権下で言論の自由を侵す恐れのある特定秘密保護法や、集団的自衛権行使を認めた安全保障関連法、内心の自由を侵す懸念がある「共謀罪」法などが次々と強引に制定された。
石浜さんはその後も、「殺すなかれ」の戒めを持つキリスト者と戦争をテーマに執筆、講演を続けてきた。「ここに暗い穴があるよと語り継ぐことがなければ、後に続く人は同じ穴にはまりやすい」と警鐘を鳴らす。
「逮捕されれば『不逞(ふてい)の輩(やから)』などと社会に白眼視され、取り調べられただけでも退学になったり解雇されたりした。そうした社会的な波及効果を当局は十分意識していた」。治安弾圧の歴史に詳しい小樽商科大名誉教授の荻野富士夫さん(72)は語る。当事者や家族にどれだけ大きな烙印(らくいん)となっただろう。
ところが、法を運用した側の国は今に至るまで、どれだけの人にどのような影響を与えたのか全容解明をしようとしない。そればかりか「当時は適法だった」との立場で、謝罪もしない。過去を省みなければ、いつか同じ過ちが繰り返されるのではないか。
荻野さんはことし、歴史教育者協議会と共に「治安維持法一〇〇年」を編んだ。この法律が社会にもたらした影響を多角的に説く。副題は「新しい戦中」にしないために―。「新しい戦前といわれるが、今は日中戦争全面化前夜に比定される」と込めた意を語る。
もう一つ強調するのは「悪法ぶりは旧満州や朝鮮半島など植民地域でより過酷に発揮された」点だ。こうした治安体制は日本の敗戦後も韓国などで軍事政権に引き継がれた。「悪法」が残した爪痕も、私たちは忘れてはなるまい。
韓国で昨年12月、尹錫悦(ユン・ソンニョル)前大統領が非常戒厳を宣言し、国会に軍を突入させたことは記憶に新しい。尹氏はその際、最大野党が「自由民主主義体制の転覆を企てている」と主張した。トランプ米大統領も「民主主義に対する脅威」と大学を攻撃している。「為政者にとって都合のいい、もっともらしい言葉で私たちの自由が奪われる恐れはいつの世にもある。聞こえのいい言葉には注意が必要です」と荻野さん。
治安維持法について知れば知るほど、蒙昧(もうまい)な軍国主義時代の遺産に過ぎないという思い込みが崩れていく。今も周りを見渡せば、治安対策などを盾に自由な言論を萎縮させる動きや空気はまん延していないだろうか。被爆地が多用する「平和」という言葉だって時の権力に利用され得る。人権が踏みにじられた悪法の歴史に学び、今に目を光らせなくてはならない。
(2025年5月8日朝刊掲載)
100年前、1925年5月に施行された。当初「国体」の変革を目指す共産主義者の結社を取り締まるとした法律は、「改正」を重ねて拡大解釈され、対象は自由主義者や宗教者、戦争に反対する者にまで広がった。特高警察による拷問やでっちあげも知られる。虐待などで命を落とした人もいる。敗戦を経て45年10月に連合国軍総司令部(GHQ)に廃止されるまで猛威を振るい、市井の人々の日常をも縛った。
「だれかがいちどばしっとやられると、正体不明の演出者の意図を敏感にさっするようになる」。神奈川県藤沢市の作家石浜みかるさん(84)が児童書「あの戦争のなかにぼくもいた」(92年)で、当時の世相を登場人物に語らせている。戦中、治安維持法で広島刑務所に服役した父義則さん(03~81年)と、母子で山口県周防大島に疎開した石浜さんの一家を描く。
神戸の歯科医だった義則さんは、教会を持たないキリスト教グループの伝道者だった。33年に神宮不敬罪を定めた旧刑法で、42年に治安維持法で投獄された。その不条理や「非国民の子」との偏見にさらされた子どもたち家族の苦境を、物語は伝える。
まさに「悪法」と戦争に振り回された人生である。義則さんは広島で服役中に被爆。一命を取り留めて釈放されたが、戦中に歯科医の免許は剝奪されており、戦後に免許を取り戻して、生活が落ち着くまで苦難は続いた。
そんな家族の記憶を、石浜さんが本にしたのは、40年前に国家機密法案が国会提出されたのがきっかけだったという。父と家族の生活を奪った治安維持法と二重写しになり「心臓を握られたような恐怖を感じた」と振り返る。
同法は廃案になったが、後に安倍晋三政権下で言論の自由を侵す恐れのある特定秘密保護法や、集団的自衛権行使を認めた安全保障関連法、内心の自由を侵す懸念がある「共謀罪」法などが次々と強引に制定された。
石浜さんはその後も、「殺すなかれ」の戒めを持つキリスト者と戦争をテーマに執筆、講演を続けてきた。「ここに暗い穴があるよと語り継ぐことがなければ、後に続く人は同じ穴にはまりやすい」と警鐘を鳴らす。
「逮捕されれば『不逞(ふてい)の輩(やから)』などと社会に白眼視され、取り調べられただけでも退学になったり解雇されたりした。そうした社会的な波及効果を当局は十分意識していた」。治安弾圧の歴史に詳しい小樽商科大名誉教授の荻野富士夫さん(72)は語る。当事者や家族にどれだけ大きな烙印(らくいん)となっただろう。
ところが、法を運用した側の国は今に至るまで、どれだけの人にどのような影響を与えたのか全容解明をしようとしない。そればかりか「当時は適法だった」との立場で、謝罪もしない。過去を省みなければ、いつか同じ過ちが繰り返されるのではないか。
荻野さんはことし、歴史教育者協議会と共に「治安維持法一〇〇年」を編んだ。この法律が社会にもたらした影響を多角的に説く。副題は「新しい戦中」にしないために―。「新しい戦前といわれるが、今は日中戦争全面化前夜に比定される」と込めた意を語る。
もう一つ強調するのは「悪法ぶりは旧満州や朝鮮半島など植民地域でより過酷に発揮された」点だ。こうした治安体制は日本の敗戦後も韓国などで軍事政権に引き継がれた。「悪法」が残した爪痕も、私たちは忘れてはなるまい。
韓国で昨年12月、尹錫悦(ユン・ソンニョル)前大統領が非常戒厳を宣言し、国会に軍を突入させたことは記憶に新しい。尹氏はその際、最大野党が「自由民主主義体制の転覆を企てている」と主張した。トランプ米大統領も「民主主義に対する脅威」と大学を攻撃している。「為政者にとって都合のいい、もっともらしい言葉で私たちの自由が奪われる恐れはいつの世にもある。聞こえのいい言葉には注意が必要です」と荻野さん。
治安維持法について知れば知るほど、蒙昧(もうまい)な軍国主義時代の遺産に過ぎないという思い込みが崩れていく。今も周りを見渡せば、治安対策などを盾に自由な言論を萎縮させる動きや空気はまん延していないだろうか。被爆地が多用する「平和」という言葉だって時の権力に利用され得る。人権が踏みにじられた悪法の歴史に学び、今に目を光らせなくてはならない。
(2025年5月8日朝刊掲載)