森脇瑤子さん遺品 戦時の日常語る 県女1年で被爆死 遺族が原爆資料館に寄贈へ
25年5月26日
服作りの授業 帳面や型紙/軍支援の献金 新聞切り抜き
被爆死する前日の1945年8月5日まで、ひたむきな生活を日記につづっていた県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)1年の森脇瑤子さん。その日記を含む遺品約40点が6月、原爆資料館(広島市中区)へ寄贈される。書籍化され内容が広く知られる日記以外の品々からも、戦局が緊迫化する前の穏やかな日常や、軍国教育に染められていった少女の姿が浮かぶ。(山本祐司)
森脇さんは尋常小学校と国民学校に通った間、「綴方(つづりかた)学習用箋」に作文を書いた。初等科3年(41年)の「おもちつき」は両親と餅をついた光景をほのぼのと描く。一方で同じ頃の「わたしがいつもおもつてゐること」には、看護師になり戦地へ赴く意気込みをにじませている。
高学年の頃に作ったとみられる「新聞切抜帳」は、軍用機への献金者を紹介する記事に「りつぱな 人たち こんな人の まねをしよう」と書き添えるなどしていた。
45年に入学した県女のノートは空白が目立ち、勤労奉仕に駆り出された日々が透ける。それでも「被服」の帳面には制服、もんぺ、運動服の寸法を細かく記すなど授業の様子も垣間見える。
当時の日記には、型紙の縮図を書き(4月21日)型紙を作り(6月13日)制服を製作した(同15日)とある。「みんなが、同じ形の制服を着て、通学している姿を思い浮かべると、ふと、微笑がわいてきた」
森脇さんは8月6日、爆心地から約0・8キロの広島市小網町(現中区)付近で建物疎開の作業中に被爆し、13歳で亡くなった。遺品の多くは「瑤子のもの」と書かれた紙箱に入っていた。2023年に死去した兄細川浩史さんの長男洋(よう)さん(65)=中区=が寄贈を決めた。箱の字は瑤子さんの母雅枝さんの自筆とみて「家族の思いがこもる。世界の人に見てもらいたい」と話す。
市の家族伝承者でもある洋さんは5月30日午後2時半、瑤子さんの日記を携え原爆資料館で講話する。寄贈前の最後の機会になり、多くの人の目に触れてほしいと願う。
(2025年5月26日朝刊掲載)