[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2008年9月2日 G8議長サミット
25年5月25日
高橋元資料館長が証言
2008年9月2日。当時77歳で広島市西区に住む高橋昭博さんは、犠牲者の遺品が並ぶ原爆資料館(中区)の一角に腰かけ、63年前の被爆の惨状を証言した。向き合ったのは、主要国(G8)下院議長会議(議長サミット)で市を訪れた核超大国の米ロや同じく核を持つ英仏など8カ国の議長たちだ。
受諾 当初迷い
与えられた時間は短く、当初、引き受けるかどうか迷っていたと、妻の史絵さん(88)=西区=は明かす。「外のことはほとんど家の中で話さない人でしたが、この時は1人で背負い切れないと思ったのでしょう」
市立中(現基町高)2年の時、爆心地から約1・4キロの校庭で被爆。炎の中を共に逃げた級友を亡くした。市職員の傍ら被爆者運動に加わり、1955年に市内で初めて開かれた原水爆禁止世界大会では、広島の被害者代表として発言した(3月16日付本連載で紹介)。79年から4年間、原爆資料館長を務め、退任後も修学旅行生たちへの証言を重ねた。
市での議長サミット開催は河野洋平衆院議長が呼びかけた。米国のペロシ下院議長は、大統領と副大統領が職務執行が困難な場合に国家元首の役割を担う「ナンバー3」で、この時点では原爆投下国の要人として歴代最高位の広島訪問だった。
核保有国の有力者に直接訴えるまたとない機会。史絵さんは自身に被爆経験がないこともあり、夫の活動にほとんど口を出さなかったが、この時は「友達のことを話したらどうですか。何も言わないよりはいいですよ」と声をかけた。
高橋さんは議長たちに証言した際に、ぼろぼろになった級友の遺品の制服をそばに置き、惨状が描かれた絵も見せた。「原爆は本当に憎いが、憎しみで憎しみを消すことができない」と説き、訴えた。「米国とロシアがまず核兵器廃絶へ強い意志を世界に示してほしい」
そろって献花
証言を聴いたペロシ氏は「ミスター タカハシ イズ ビューティフル(高橋さんは素晴らしい)」と語ったという。議長たちは訪問の所感をしたため、ロシアのグリズロフ国家院議長は「国際社会は、核などの大量破壊兵器の不拡散体制のさらなる強化、終始一貫した大幅な削減を目指し、共同努力をさらに活発化すべきだ」。訪問に先立ち、原爆慰霊碑にそろって献花し、碑前で全員が手をつないだ。
「帰宅した夫は興奮気味でした。手応えがあったのでしょう」と史絵さん。議長サミットでは非公開で「平和と軍縮に向けた議会の役割」などが討議され、河野議長は閉幕の記者会見で「核軍縮や核兵器廃絶へ強い発言があった」と説明した。
2カ月後の08年11月。米大統領選で核軍縮に意欲を示すオバマ氏が当選する。翌年1月に就任すると、高橋さんは「核兵器廃絶を誓って」などと被爆地訪問を求める手紙を4回送った。実現を見ぬまま11年11月に心不全のため80歳で逝った。証言の意欲は衰えず、亡くなる前日にも入院先の病室で「あいうえお、かきくけこ」と声を出す練習をしていた。(下高充生)
(2025年5月25日朝刊掲載)