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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2004年5月27日 似島の遺骨発掘

85体分出土 遺品も次々

 2004年5月27日。広島湾の離島、似島(広島市南区)の南東部で、市の委託を受けた地元業者が重機を使い、土を掘り起こす作業を始めた。旧日本陸軍馬匹(ばひつ)検疫所跡の一角で、戦後はミカン畑に。被爆直後に島に運ばれて亡くなった犠牲者が埋葬されたとの証言が残り、遺骨を捜す試掘調査だった。

粘り強く要請

 「道路を整備しようと話していたら、島の長老が『そこを掘ったら骨が出る』と言ってね。供養のためにも絶対に掘りたいと思った」。当時似島連合町内会長の平田襄さん(78)は、当初後ろ向きだった市に試掘を粘り強く要請し、動かした。

 似島には日清戦争を機に1895年に、伝染病対策で帰還兵たちの検疫所が設けられた。薬や衛生資材の備蓄があり、1945年8月6日の原爆投下直後に臨時の野戦病院となった。同25日に閉鎖されるまでの間に約1万人を収容したとされ、近くの馬匹検疫所の馬小屋も使われた。多数の遺体は当初、火葬されたが、追いつかなくなるとそのまま埋葬されたという。

 市は戦後まもなく島内各地から遺骨を収集して供養塔を建て、55年に平和記念公園の原爆供養塔へ約2千体分を移した。71年には馬匹検疫所跡で推定617体の遺骨を発掘したが、当時ミカン畑となっていた場所は調査を見送っていた。

 被爆から59年の原爆の日が近づく中、市から試掘を請け負った地元土木会社の住田健治さん(66)が社長の兄吉勝さん(19年に68歳で死去)と作業した。重機で70センチほど掘るとすぐに1人の遺骨が出てきて、手作業に切り替えた。

 「白いぽつぽつとした歯が見え、その下をなでると頭蓋骨が出た。最初に掘った場所ですぐに見つかったので、犠牲者の『掘り出してほしい』という思いなのだと感じました」

手作業で協力

 翌月に本格調査が始まると、島民も手作業で協力。もろくなった茶褐色の遺骨が3、4層にも重なって見つかった。健治さんは「遺骨が埋まっている場所からは生臭い独特の臭いがした。腕をかんで食いしばっている様子の頭蓋骨もあり、戦争の恐ろしさを思い知った」と話す。悲惨さを伝えようと島の小中学生に発掘現場を見せ、近くに墓石を置いた。手を合わせる遺族の姿もあった。

 犠牲者が身に着けていたとみられる指輪や学生服のボタンなども次々に出土。7月下旬までに約659平方メートルを発掘し、85体分の遺骨と遺品65点を確認した。遺骨は原爆供養塔に納められ、遺品は原爆資料館で保管。動員学徒の名札や印鑑は遺族の元に帰った。

 埋め戻されて更地となった現場は14年、市が国から無償で借り受け、管理を任された平田さんたち地元有志が「慰霊の広場」を整備した。健治さんのデザインで広島を流れる六つの川や似島をイメージした花壇、島の小中学生が名付けた小高い丘を築き、発掘現場を知らせる看板も設けた。

 21年には似島平和資料館が開館。住民有志たちでつくる「似島歴史ボランティアガイドの会」が整備し、被爆者の遺品などが並ぶ。(山下美波)

(2025年5月24日朝刊掲載)

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