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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2011年3月11日 福島第1原発事故

被爆者も被災 支援の手

 2011年3月11日。当時81歳の被爆者、大内佐市さんは福島県飯舘村の特別養護老人ホーム(特養)で過ごしていた。3年前に脳梗塞を発症。体を自由に動かせなくなり自宅から移ったが、一時でも戻りたい思いを抱き続けていた。

 西隣にある川俣町の山木屋地区の出身。戦時中は、広島県乃美尾村(現東広島市)の賀茂海軍衛生学校で学んだ。米軍が広島市へ原爆を投下した2日後、壊滅した市中心部に薬や水を携えて入り被爆。横川駅(現西区)を拠点に活動し、負傷者を励ました。

 戦後に帰郷すると農業や養蚕を営み、子ども4人を育てた。被爆2世となる長男秀一さん(76)は「成人する頃まで毎年欠かさず健診を受けさせるなど、父は子どもたちの健康に人一倍気を使っていました」と語る。

 父が特養に入ると、実家で母と暮らす秀一さんは定期的に面会に訪れていた。だが、思いも寄らぬ形で放射線被害が家族の日常を奪う。

避難区域指定

 3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9・0の巨大地震が発生。東日本大震災で飯舘村は最大震度6弱を記録し、沿岸部には津波が襲来した。東京電力福島第1原発は電源を喪失。冷却機能を失った原子炉3基が炉心溶融(メルトダウン)や水素爆発を起こし、放射性物質が放出された。

 大内さんがいた飯舘村の特養は原発の北西約40キロ。放射性物質の累積量が高く「計画的避難区域」に指定されたが、大内さんは避難による体調の変化が不安で残った。

 川俣町山木屋地区も同じ区域に指定されたため、秀一さんと母は自宅から逃れた。「避難したら戻れないのでは」「放射線の健康影響について何を信じればいいのか」と不安に駆られた。

 事故後、福島県の要請で、広島県が事務局を担う放射線被曝(ひばく)者医療国際協力推進協議会(HICARE)が放射線技師たちの専門家チームを派遣し、住民の被曝状況の把握などを支援した。県内の市民からも被災者に寄り添おうとする動きが起こり、発生4カ月後の11年7月に、福山市の盈進高の生徒5人が福島県を訪ねた。

「願いに逆行」

 当時2年生の増田有沙さん(30)=福山市=は「『もう二度と同じ思いをさせてはならない』という被爆者の願いが踏みにじられていると感じて」。日頃から被爆者の聞き取りや核兵器廃絶の署名集めをしており、被爆66年後に原発事故に遭った大内さんに直接思いを聞くのが目的だった。

 面会は、秀一さんの協力で大内さんを川俣町の避難区域外に連れ出してもらい実現。生徒は被爆体験や、先行きの見えない福島の現状に触れた。聞き取った内容を文化祭や地域の講演会で発表。12、13年も大内さんたちを訪ねるなど交流を続けた。

 大内さんは14年、住み慣れたわが家に戻れないまま84歳で亡くなった。秀一さんは16年に福島県の被爆者遺族の代表として平和記念式典に参列。同年に自宅に戻り、農業などで再起を図る。「放射線被害は長く苦しい。広島も福島も、歴史は繰り返してはならねえ」との思いは強い。

 福島県と県原爆被害者協議会のまとめでは、11年3月末時点で県内に被爆者健康手帳所持者が92人おり、原発から半径30キロ圏内に8人が暮らしていた。原発事故発生から14年たつ今も県民約2万5千人が県内外で避難生活を続けている。(山本真帆)

(2025年5月27日朝刊掲載)

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