×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 1946年] 5月 夫亡き妻に同情の手紙

 1946年5月。新聞記者だった夫を広島の原爆で奪われた藤間幸子さん(2008年に92歳で死去)の元に手紙が届いた。「大黒柱を失はれ御不自由は心から御同情に堪(た)へません」。故郷の津山市で5人の娘を必死に育てていた。

 送り主は田外好雄さんで、20日付。岡山市に本社を置く合同新聞社(現山陽新聞社)の記者だった藤間さんの夫侃治(かんじ)さんの同僚とみられる。

 藤間さんから生活援助の相談を受けていたが、ほかに殉職した社員がいる中で会社が手を差し伸べるのは難しいと伝達。代わりに「援護会を作り目下資金の募集を始めてゐます」とし、「今暫(しばら)く元気を出して頑張ってゐて下さい」と励ました。

 当時33歳の侃治さんは出産間近だった妻と娘たちを残して45年5月、単身で広島市へ。8月6日、下流川町(現中区)の広島支社近くで被爆し、船越国民学校(現安芸区の船越小)に運ばれたようだ。

 救護の女性に託した伝言が16日に津山市の藤間さんの元に速達で届き、親族が連れ帰ったが、24日に亡くなった。被爆2日前には「十二、三日頃には帰る心算(つもり)」と家族に宛ててはがきを送っていた。

 藤間さんは戦後、6月に生まれた五女を背負い、綿糸工場で働いた。「必死で働く以外、生きる道はありませんでした。行商、失業対策事業、寮の管理人…。何でもやりました」と85年に山陽新聞労働組合関係者の聞き取りに語っている。

 三女の昭代(てるよ)さん(83)=兵庫県宝塚市=も働きづめで育ててくれた母の姿を記憶する。自宅の一室には、母が描いた侃治さんの似顔絵が飾られ「お父さんが見とるんやから」と、よく言われたという。昭代さんも「行ってきますとあいさつしたり、学校の成績を報告したり」。生活は苦しかったが、家族の中心にはいつも侃治さんの姿があった。(山本真帆)

(2025年5月29日朝刊掲載)

年別アーカイブ