[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2017年6月 核兵器禁止条約 制定求め 署名を国連へ
25年5月30日
2017年6月16日。日本被団協から派遣された被爆者の箕牧(みまき)智之さん(83)=広島県北広島町=たちが「核兵器禁止条約」制定交渉会議が続く米ニューヨークの国連本部を訪れた。核兵器の禁止・廃絶を求める296万3889筆の「ヒバクシャ国際署名」の目録を日本から携え、ホワイト議長(コスタリカ)に届けた。
「条約ができたら、世界が変わるかと思うた」。箕牧さんは当時75歳で広島県被団協の副理事長。90歳を超えても「ネバー・ギブアップ」と核兵器廃絶を訴え続ける理事長の坪井直さんの熱意を肌で感じながら共に街頭署名に立ってきた。
日本は不参加
米軍の原爆投下時は3歳で飯室村(現広島市安佐北区)に住んでいた。広島駅に勤める父を捜すため、投下翌日から母に連れられて市中心部に入り被爆した。毎年8月6日は平和記念式典を放送するテレビの前で母から当時の話を聞いた。05年、地元の被爆者団体の会長に就任。農業や保護司の活動にいそしむ傍ら、14年に県被団協の副理事長に就いた。
署名一筆一筆に込められた思いを背負って渡米したが、懸念があった。「『あなたの国の政府が来ていないが、どうしてなのか』と言われたら、どう答えれば良いのかと」。交渉会議には核兵器保有国のみならず、米国の「核の傘」に頼る日本などの政府代表も不参加だった。
議長から謝意
署名の目録を受け取ったホワイト議長からは謝意を伝えられた。「とても感動的だ。核兵器の犠牲者の苦しみが軍縮の努力の原点であるべきだと思い起こさせてくれた」
3月から2度に分けて開かれた交渉会議では、条約を推進する非保有国の政府とともに、各国の反核団体が手をつなぐ非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))も禁止の必要性を外交官たちに説き続けた。広島で被爆し、ICANに協力するサーロー節子さん(93)=カナダ・トロント市=がNGO枠で演説して条約制定への期待を語ると、大きな拍手が湧いた。
7月7日。核兵器を持たない122カ国・地域の賛成で核兵器禁止条約は採択された。
前文は「核兵器の使用による被害者(ヒバクシャ)ならびに核兵器の実験によって影響を受けた人々に引き起こされる受け入れ難い苦痛と危害に留意」し、「二度と使われないことを保証する唯一の方法」として廃絶の必要性を強調した。条文では、開発、保有、使用など核兵器の存在につながるあらゆる行為を例外なく禁止し、被害者援助や環境修復も定めた。
核保有国や「核の傘」の国の後ろ向きな姿勢は変わらず、対して被爆者団体は全ての国に禁止条約参加を迫る署名集めを続けた。10月、箕牧さんは励みとなる知らせを聞いた。ノーベル平和賞にICANが選ばれた。
ノルウェー・オスロで12月に開かれた授賞式では、サーローさんが被爆者として初めて演説した。「広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしい。一人一人に名前があった」。4歳で被爆死したおいの岸田英治さんの名前を挙げて訴え、禁止条約を「核兵器の終わりの始まりにしよう」と呼びかけた。
条約は21年1月22日、規定していた50カ国・地域の批准により発効。広島の被爆者7団体は、奇数月の22日に日本の参加を求める街頭署名活動を始めた。この年の10月に亡くなった坪井さんの後任として県被団協理事長に就いた箕牧さんも立ち続けている。(下高充生、編集委員・水川恭輔)
(2025年5月30日朝刊掲載)
「条約ができたら、世界が変わるかと思うた」。箕牧さんは当時75歳で広島県被団協の副理事長。90歳を超えても「ネバー・ギブアップ」と核兵器廃絶を訴え続ける理事長の坪井直さんの熱意を肌で感じながら共に街頭署名に立ってきた。
日本は不参加
米軍の原爆投下時は3歳で飯室村(現広島市安佐北区)に住んでいた。広島駅に勤める父を捜すため、投下翌日から母に連れられて市中心部に入り被爆した。毎年8月6日は平和記念式典を放送するテレビの前で母から当時の話を聞いた。05年、地元の被爆者団体の会長に就任。農業や保護司の活動にいそしむ傍ら、14年に県被団協の副理事長に就いた。
署名一筆一筆に込められた思いを背負って渡米したが、懸念があった。「『あなたの国の政府が来ていないが、どうしてなのか』と言われたら、どう答えれば良いのかと」。交渉会議には核兵器保有国のみならず、米国の「核の傘」に頼る日本などの政府代表も不参加だった。
議長から謝意
署名の目録を受け取ったホワイト議長からは謝意を伝えられた。「とても感動的だ。核兵器の犠牲者の苦しみが軍縮の努力の原点であるべきだと思い起こさせてくれた」
3月から2度に分けて開かれた交渉会議では、条約を推進する非保有国の政府とともに、各国の反核団体が手をつなぐ非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))も禁止の必要性を外交官たちに説き続けた。広島で被爆し、ICANに協力するサーロー節子さん(93)=カナダ・トロント市=がNGO枠で演説して条約制定への期待を語ると、大きな拍手が湧いた。
7月7日。核兵器を持たない122カ国・地域の賛成で核兵器禁止条約は採択された。
前文は「核兵器の使用による被害者(ヒバクシャ)ならびに核兵器の実験によって影響を受けた人々に引き起こされる受け入れ難い苦痛と危害に留意」し、「二度と使われないことを保証する唯一の方法」として廃絶の必要性を強調した。条文では、開発、保有、使用など核兵器の存在につながるあらゆる行為を例外なく禁止し、被害者援助や環境修復も定めた。
核保有国や「核の傘」の国の後ろ向きな姿勢は変わらず、対して被爆者団体は全ての国に禁止条約参加を迫る署名集めを続けた。10月、箕牧さんは励みとなる知らせを聞いた。ノーベル平和賞にICANが選ばれた。
ノルウェー・オスロで12月に開かれた授賞式では、サーローさんが被爆者として初めて演説した。「広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしい。一人一人に名前があった」。4歳で被爆死したおいの岸田英治さんの名前を挙げて訴え、禁止条約を「核兵器の終わりの始まりにしよう」と呼びかけた。
条約は21年1月22日、規定していた50カ国・地域の批准により発効。広島の被爆者7団体は、奇数月の22日に日本の参加を求める街頭署名活動を始めた。この年の10月に亡くなった坪井さんの後任として県被団協理事長に就いた箕牧さんも立ち続けている。(下高充生、編集委員・水川恭輔)
(2025年5月30日朝刊掲載)