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反核姿勢 国民に団結もたらす ニュージーランドのクラーク元首相 与党入れ替わっても政策堅持

 南太平洋のニュージーランドは核兵器大国に真っ向から対抗し、反核を掲げてきた歴史がある。核実験中止を求める国際司法裁判所(ICJ)への提訴や、周辺の島国と連携した非核地帯の実現などで国際的なインパクトも与えてきた。広島市を5月に訪れたヘレン・クラーク元首相(75)が中国新聞のインタビューで語った言葉を交え、その歩みをたどる。(小林可奈)

 「首相だった2001年に広島を初めて訪問し、今回が2度目です。当時、原爆資料館で見た子どもの三輪車や傷んだ服、悲惨な写真…。忘れることなどできません。

 その原爆投下の5年後に私は生まれ、大学生だった冷戦期の1960年代はニュージーランドでも核戦争を懸念するムードが広がっていました。太平洋が核実験場だったことも背景に、反核の草の根運動が根付き、育っていったのです」

 ≪太平洋は原爆投下の翌46年以降、米国や英国の核実験場になった。フランスも66年から、南太平洋・仏領ポリネシアの環礁で大気圏内核実験を強行した。これに対しニュージーランド側は、政府が実験海域ヘフリゲート艦を派遣。市民も漁船などで向かい、抗議した。≫

 「こうした姿勢はフランスとの間に大きな摩擦を生み、反核の姿勢はより強固になっていったと思います」

 ≪73年にはフランスの核実験中止を求め、オーストラリアと共にICJに提訴。さらに95年にも単独で再提訴し、対抗姿勢を徹底し続けた。
 クラーク氏は81年に国会議員として初当選し、政治家の道を歩み始めた。≫


 「私が所属してきた労働党は、核搭載の恐れがある艦船や原子力船の入港を禁じてニュージーランドを非核地帯にする政策を掲げました」

 ≪84年に政権を奪取した労働党は、核を積載できる艦船を寄港させたいという米側の申し入れを拒否。その結果、ニュージーランドは米豪との相互安全保障条約(アンザス条約)に基づく米国の防衛義務を86年に停止され、いわゆる「核の傘」から外れた。核大国の圧力を受けながらも、同年には周辺の島国8カ国で南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)を発効した。現在は13カ国が批准する。≫

 「強固な反核の姿勢はニュージーランド国民に分断ではなく団結をもたらしていると思います」

 ≪クラーク氏の首相在任期間(99~2008年)の前後は、中道右派の国民党が政権与党になった。同党はもともと反核政策に否定的だったが、90年に従来の立場を放棄すると表明。政権交代で与党が入れ替わっても同国は非核政策を堅持し、核兵器禁止条約の21年の発効でもけん引役を担うなどしている。≫

 「日本政府は核の傘に頼る限り核兵器禁止条約への署名・批准を拒むでしょう。ただ、被爆国の日本こそ道徳的権威と発言力を示し、核問題で世界のけん引役を果たせるはずです。

 核軍縮に関し、女性リーダーの声も大切です。女性首相がまだ生まれていない日本では、閣僚レベルでも女性がとても少ない。より良い世界にするためにも女性の声をもっと響かせるべきです」

 1950年ニュージーランド・ハミルトン出身。大学講師から政治家に転身し、労働相などを歴任。99~2008年に首相を務めた。09~17年に女性で初めて国連開発計画(UNDP)の総裁に就いた。元南アフリカ大統領の故ネルソン・マンデラ氏が設立した国際人道グループ「エルダーズ」のメンバー。広島市で5月にあった同グループの会合に出席した。

フランスの核実験 南太平洋・仏領ポリネシアのムルロア環礁とファンガタウファ環礁で1966~96年に大気圏内46回、地下147回の核実験を繰り返した。アフリカのサハラ砂漠でも60~66年に大気圏内4回、地下13回を実施した。

<ニュージーランドの反核を巡る主な動き>

1963年 米国、ソ連、英国による大気圏内核実験を禁じる部分的核実験禁止条約(PTBT)が発効。フランスは加わらず
  66年 フランスが仏領ポリネシアで大気圏内核実験を開始
  73年 フランスの核実験中止を求め、オーストラリアと共に国際司法裁判所(ICJ)に提訴。放射性降下物をもたらす核実験を控えるよう促す暫定措置を引き出す
  85年 オークランド港で、核実験に抗議する環境保護団体グリーンピースの「虹の戦士」号がフランス情報機関の工作員によって爆破され、1人死亡。国連が仲裁し、86年にフランスに対し謝罪や賠償金を命じる
  86年 アンザス条約に基づく米国の防衛義務停止▽ラロトンガ条約発効
  87年 核艦船の寄港禁止を含む反核法成立
  95年 フランスの核実験中止を求め、ICJに単独で再提訴
  96年 フランスが核実験を停止

(2025年6月2日朝刊掲載)

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