[20万人割れのまち] 呉の人口 時代で変化 ピーク時40万人 海軍工廠の雇用/終戦/重工業発展
25年6月2日
人口が20万人を下回った呉市。かつての漁村は、終戦間際のピーク時には約40万人を抱える全国有数の都市になった。人口の推移を振り返ると、国際情勢や国内産業の変化に合わせて変わる呉市の姿が見える。(小林旦地)
1889年に旧海軍の呉鎮守府が開庁し、呉海軍工廠(こうしょう)の生産能力の向上とともに雇用数も急増した。終戦間際には10万人近い工員が勤めた。1909年に県内で初の路面電車が走るなど都市基盤の整備も進んだ。倉本勝文さん(92)は街なかの小学校に通っていた当時を「人が多くて、遊ぶところがなかった。かくれんぼの時は人混みの中に隠れていた」と懐かしむ。
国策で右肩上がりに人口が増えた呉だが、人の減った局面もあった。21、22年のワシントン軍縮会議の取り決めなどで、呉海軍工廠の工員は約3万1千人から1万人程度減った。呉の人口も25年までに約3千人減り約13万9千人になった。失業者の多くが、出身の農村に帰ったという。
狭い土地に多くの人が暮らしたため、たびたびチフスなどの感染症が広がった。26、30、35、40年は、人口1万人当たりの感染症の患者発生数が全国平均の2倍以上となった。
広島国際大の千田武志客員教授は感染症の要因について、当時の市の財政難と水道整備の遅れを指摘する。海軍関連施設やそこの労働者には課税が難しかった。海軍用の上水道が全国に先駆けて整備されたが、市民への給水は遅れ、衛生環境はよくなかったという。
終戦で海軍工廠が解体され人口は15万人台まで急減。高度経済成長期に重工業の発展とともに増加した人口は半世紀前の75年に約24万3千人のピークを迎える。70年代から中通でスタンドバーを経営する戸崎静子さんはこの頃を「80年代は陽気なスーツ姿の人で店は埋まって毎日がお祭りみたいだった」と振り返る。
戸崎さんは「バブル崩壊後も他の街ほど沈み込んだ雰囲気はなかった」。平成の大合併による一時的な増加を除いて、半世紀にわたり減少傾向が続き、戸崎さんも近年は街の元気のなさを感じている。
千田さんは「工業化した街では一般的な流れ」とした上で、人口減少による悲観論には疑問を投げかける。「戦前の生活から分かる通り、人が多ければ豊かということではない。どういう街にしたいか、みんなで考えることが大切だ」
(2025年6月2日朝刊掲載)
1889年に旧海軍の呉鎮守府が開庁し、呉海軍工廠(こうしょう)の生産能力の向上とともに雇用数も急増した。終戦間際には10万人近い工員が勤めた。1909年に県内で初の路面電車が走るなど都市基盤の整備も進んだ。倉本勝文さん(92)は街なかの小学校に通っていた当時を「人が多くて、遊ぶところがなかった。かくれんぼの時は人混みの中に隠れていた」と懐かしむ。
国策で右肩上がりに人口が増えた呉だが、人の減った局面もあった。21、22年のワシントン軍縮会議の取り決めなどで、呉海軍工廠の工員は約3万1千人から1万人程度減った。呉の人口も25年までに約3千人減り約13万9千人になった。失業者の多くが、出身の農村に帰ったという。
狭い土地に多くの人が暮らしたため、たびたびチフスなどの感染症が広がった。26、30、35、40年は、人口1万人当たりの感染症の患者発生数が全国平均の2倍以上となった。
広島国際大の千田武志客員教授は感染症の要因について、当時の市の財政難と水道整備の遅れを指摘する。海軍関連施設やそこの労働者には課税が難しかった。海軍用の上水道が全国に先駆けて整備されたが、市民への給水は遅れ、衛生環境はよくなかったという。
終戦で海軍工廠が解体され人口は15万人台まで急減。高度経済成長期に重工業の発展とともに増加した人口は半世紀前の75年に約24万3千人のピークを迎える。70年代から中通でスタンドバーを経営する戸崎静子さんはこの頃を「80年代は陽気なスーツ姿の人で店は埋まって毎日がお祭りみたいだった」と振り返る。
戸崎さんは「バブル崩壊後も他の街ほど沈み込んだ雰囲気はなかった」。平成の大合併による一時的な増加を除いて、半世紀にわたり減少傾向が続き、戸崎さんも近年は街の元気のなさを感じている。
千田さんは「工業化した街では一般的な流れ」とした上で、人口減少による悲観論には疑問を投げかける。「戦前の生活から分かる通り、人が多ければ豊かということではない。どういう街にしたいか、みんなで考えることが大切だ」
(2025年6月2日朝刊掲載)