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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2019年11月24日 ローマ教皇2人目の訪問

「魂」込め被爆者が証言

 2019年11月24日。ローマ教皇フランシスコが広島市中区の平和記念公園を訪れ、日本カトリック司教協議会(東京)や広島県、市などによる「平和のための集い」が開かれた。教皇と参列者約2千人を前に、被爆者の代表が証言に立った。

 「平和を願う多くの人の力と亡くなった人の魂によって核は必ず廃絶される」。力強く訴えたのは梶本淑子さん(94)=西区=だった。

 広島平和文化センターの被爆体験証言者を務め、半年近く前に市から依頼されていた。光栄に思い引き受けたが、家族にも話さないよう言われ、1人で何度も原稿を書き直した。与えられた時間はわずか2分。「たくさんの内容をカットしたけど、『亡くなった人の魂』という言葉は必ず入れたかったんです」

 安田高等女学校(現安田女子中高)3年生の時、爆心地から約2・3キロの学徒動員先の工場で被爆。倒壊した建物の下敷きになったが、無我夢中ではい出し、大やけどを負って逃げ惑う市民を目の当たりにした。

無念を伝える

 安田高女の生徒は315人が犠牲に。梶本さんを捜し歩いた父は1年半後に急死し、母も入退院を繰り返した。母と弟3人のため、教師の夢を諦めて卒業後は洋服店で懸命に働いた。結婚して子ども2人を育て、孫の勧めで70歳の時に被爆証言を始めた。

 「魂」の一文を込めたのは「何も言えずに亡くなった被爆者たちがたくさんいる。父や学友たち犠牲者の無念の思いを伝えたかったから」。当日は緊張と寒さで脚が震えたが、脳裏に焼き付いた74年前の惨状や戦後の苦しみを語った。終了後、周囲から「被爆時の様子や思いが伝わった」と言われて胸をなで下ろした。

 同様に証言する予定だった当時91歳の被爆者の細川浩史さんは、体調不良で急きょ欠席した。一緒に原稿を練った長男洋さん(66)=中区=は「父は誇りに思っていた分、残念がっていました」と振り返る。

 細川さんは17歳の時に爆心地から約1・3キロで被爆。広島県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年で建物疎開作業に動員された妹の森脇瑤子さんが命を落とした。用意した原稿は代読され、普段の証言でも必ず伝える思いに触れた。「戦争は人間を狂気にし、その究極が原爆で人間の存在を否定しました」

 細川さんはその約2カ月後に入院。「次世代にヒロシマを伝承することが、私たち被爆者に課せられた最後のミッション」(集いの原稿)と語ってきたが、証言活動は困難となり、23年に95歳で息を引き取る。

心動かされた

 教皇による広島訪問は、ヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり2人目だった。フランシスコは原爆慰霊碑前に招かれた被爆者一人一人と言葉や握手を交わし、献花、黙とうした。「戦争のために原子力を使用することは、現代において犯罪以外の何ものでもありません」と約14分間のメッセージを発した。

 ローマに戻る機内で、被爆地訪問を「深く胸に刻まれる体験だった」「とても強く心を動かされた」と語った。今年4月に88歳で死去。アルゼンチン出身で12年の在位中、核兵器廃絶の必要性を繰り返し訴えた。(山下美波)

(2025年6月1日朝刊掲載)

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