[被爆80年] 隣で倒れた上級生 語れなかった悔い 当時16歳 東広島の宮川さん
25年6月1日
何もできず避難 情景今も
東広島市西条町の宮川静登さん(96)は、広島に原爆が落ちた日から誰にも言えない悔いを抱えてきた。「なぜ助けようとしなかったのか」。被爆80年を前に、自分に問うように話し始めた。(教蓮孝匡)
1945年8月6日、宮川さんは松本工業学校(現瀬戸内高)の1年生で16歳だった。登校中、爆心地から3キロの尾長町(現広島市東区)で強い光に包まれた。爆風で転倒。がれきが飛び散り、粉じんが舞って何も見えなくなった。顔を触ると手のひらにべっとりと血が付いた。左足のかかとの肉はえぐれていた。
路上を見ると、隣を歩いていた上級生がうつぶせで倒れていた。背中の肉が縦に深く大きく裂け、まったく動かない。声もかけられないまま、山へと逃れる人の流れに加わった。上級生は息絶えていたのかもしれない。「けど、何もせず置いていってしまったことが心残りで…」
翌日、西条町の自宅から捜しにきた父に連れられ家に帰った。終戦後も医薬品は足らず、けがの治療はままならない。学校は中退して家の田畑を手伝った。地元の友達が鼻をつまんで家の前を通る。被爆者への偏見だった。父は「列車事故に遭った」と語り、息子の被爆をひた隠しにした。宮川さんも8月6日のことについて一切、口を閉ざした。
28歳で結婚し、2年ほどたった日、妻から不意に「原爆手帳(被爆者健康手帳)を受け取れば」と言われた。妻にも被爆を明かしたことはなかったが、知っていたようだ。「そう言ってくれるのなら、そうする」。心がふっと軽くなった。入市被爆した父は74歳で亡くなるまで手帳の申請をしなかった。
宮川さんは60歳で定年した後は東広島市原爆被害者の会の活動に携わり、副会長を務めた。地元の小学校で1度だけ戦争体験を語った。だが、上級生のことは話せなかった。近所の寺に行くたび、「何もできず、すみませんでした」と手を合わせた。
あの情景は今も、夢に見る。被爆から80年。自分が語れることは語っておかねばと思い、1人で抱えてきた記憶を打ち明けた。「再び戦争を起こさないための私の務め」という言葉を添えて。
(2025年6月1日朝刊掲載)