[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2019年8月6日 西日本豪雨被災地
25年5月31日
碑の復旧 住民ら再び力
2019年8月6日。前年の西日本豪雨で被災した広島県坂町の小屋浦公園で、追悼行事があった。地元住民たちにより6月に移設、復旧された原爆慰霊碑の前で、遺族たちが手を合わせた。
「弔う場所があるのはありがたいことです。伯母は家族の誰にもみとられず亡くなったと聞いていますから」。広島市中区の主婦、井川衣恵さん(57)も参列した。伯母の小桜マス子さんの名が碑に刻まれ、同居する母でマス子さんの妹の新家ミドリさん(88)と豪雨前まで毎年訪れていた。
1945年8月6日の米軍による原爆投下時、マス子さんは女学生で、建物疎開作業に動員されて被爆した。似島(現南区)に運ばれた後、亡くなり、小屋浦に埋葬されたとみられる。
今の三次市に疎開していた当時8歳のミドリさんは、「おなかがすいたら破って食べなさい」と大豆を詰めたお手玉を送ってくれた姉の優しさを忘れない。「勉強のことで先生に怒られたときは、『私がちゃんと教えておくので』と間に入ってくれました」
小屋浦地区にはマス子さんのように被爆した人たちが運ばれ、学校や海水浴場に収容された。「救護所に行った母から、『うめき声や泣き声、親を呼ぶ声が交じり合っていた』と聞きました」と地元の西谷敏樹さん(79)は語る。「広島原爆戦災誌」(71年刊)によると、一帯に約150人が埋葬されたという。
墓標建て祈り
その地に住民たちは46年に木の墓標を建て、風雨で朽ちそうになると更新し、弔ってきた。にもかかわらず、小屋浦では遺骨が野ざらしになってきたとの誤認識が伝わっていたため、心を痛めた住民有志が80年代に被爆後の状況を調査。遺族を捜すなどすると、慰霊碑の建設機運が高まった。
共感した海田町の造園業田川房雄さん(84)が無償で工事を請け負うなどし、87年に墓標と同じ場所に碑を建立した。「戦争を経験した世代として、微力ながら協力したいと思いました」。石の台座の上に高さ1・4メートルの御影石を据え、側面には亡くなる前の犠牲者本人の話や衣服の名札から確認できた93人の名前を記した。
住民たちが守ってきたが、18年7月6日の西日本豪雨で背後の土砂が崩れ、被災した。小屋浦地区では集落を取り囲む山で複数の土石流が発生。大量の土砂などが流れ込み、死者15人、行方不明者1人を数えた。
「守る会」結成
井川さんは1週間ほど後に様子を見に行き「碑を維持するのはもう難しいだろうと諦めていました」。豪雨直前には、坂町原爆被害者の会が会員の高齢化を受け、7月末での解散を決めていた。
碑の復旧へ、再び住民が動いた。西谷さんたちが「原爆慰霊碑を守る会」を結成。もともと山際で、JR呉線を渡って行き来する不便な場所にあったため、当たれる遺族に手紙や電話で移設の意向を尋ね、町とも候補地などを交渉。町費により小屋浦公園への移設を実現した。
西谷さんは定期的に掃除などのために訪れるが「10回のうち8回は何もすることがなくて。公園に来た人がきれいにしてくれるのでしょう」。地元の小学生や高齢者は折り鶴をささげている。
田川さんは移設に合わせ、碑の周囲にあった土も移しツバキを植えた。井川さんは、その種を許可を得て自宅に持ち帰って植え、今春芽が出た。「高齢でもう慰霊碑へ行けない母には、ことしからツバキの鉢に線香を供えてもらおうと思っています」(下高充生)
(2025年5月31日朝刊掲載)