戦後80年 芸南賀茂 生徒倶楽部 <下> 次々戦地へ 多くの別れ
25年6月8日
旧海軍兵学校(江田島市江田島町)の生徒が休日を過ごした生徒倶楽部(くらぶ)の一つ、大久保倶楽部で両親を手伝っていた大久保延子さん(95)。太平洋戦争が始まった1941年は小学6年生だった。親しくなった「お兄さん」たちは兵学校を卒業すると次々と戦地へ赴き、多くの人が亡くなった。
遺品に制服託す
「自分が死んだら遺品として実家に送ってほしい」。そう言い残して兵学校の制服を大久保家に託した卒業生は、フィリピン沖で戦死した。山形県の実家に連絡して送ると、父親から墓を建立したことを伝える礼状が届いた。戦闘機で敵機に突っ込む神風特攻隊の隊員として出撃した人、兄弟4人が同じ戦地で亡くなった人もいた。「あの頃はみんな、命はないものと覚悟を決めていた」
大久保さんは、生徒が卒業時に分隊ごとに贈ってくれた寄せ書きや写真を宝物として大切に保管している。亡くなった人の名前を口にしながら「命、惜しいよね。名誉の戦死というけれど…。もったいないよね」と涙をにじませた。
居間の壁には「第七十一期 第十八分隊」と書かれた大きなしゃもじの寄せ書きが飾られている。名前を記した11人のうち、終戦時に生き残ったのは1人だけだった。
九死に一生を得た人もいた。戦艦大和を護衛する巡洋艦に乗っていた隊員は、爆破による大やけどを負ったが生還した。人間魚雷「回天」の隊員は港で出撃準備をしていたが、敵が現れないまま終戦を迎えたという。
生き残った人は戦後、医大の学長、建築家、弁護士などさまざまな道に進んで活躍した。「みんな優秀な人ばかり。亡くなった人の分も懸命に生きているように思う」
戦後も交流続く
倶楽部を縁とした交流は戦後も続いた。全国から感謝をつづる手紙や写真が送られ、結婚して家族で訪れる人もいた。分隊の同窓会も大久保宅でたびたび開かれ、感謝状も贈られた。「全国に大切な家族ができたよう。悲しみも喜びも、今では大切な思い出」と笑顔をのぞかせる。
多くの若い命との別れを体験した大久保さん。自らも空襲で命の危険にさらされ、通っていた女学校は全焼した。「今の若い人たちには、こんな悲劇は経験してほしくない」と願う。(楠信一)
(2025年6月8日朝刊掲載)
遺品に制服託す
「自分が死んだら遺品として実家に送ってほしい」。そう言い残して兵学校の制服を大久保家に託した卒業生は、フィリピン沖で戦死した。山形県の実家に連絡して送ると、父親から墓を建立したことを伝える礼状が届いた。戦闘機で敵機に突っ込む神風特攻隊の隊員として出撃した人、兄弟4人が同じ戦地で亡くなった人もいた。「あの頃はみんな、命はないものと覚悟を決めていた」
大久保さんは、生徒が卒業時に分隊ごとに贈ってくれた寄せ書きや写真を宝物として大切に保管している。亡くなった人の名前を口にしながら「命、惜しいよね。名誉の戦死というけれど…。もったいないよね」と涙をにじませた。
居間の壁には「第七十一期 第十八分隊」と書かれた大きなしゃもじの寄せ書きが飾られている。名前を記した11人のうち、終戦時に生き残ったのは1人だけだった。
九死に一生を得た人もいた。戦艦大和を護衛する巡洋艦に乗っていた隊員は、爆破による大やけどを負ったが生還した。人間魚雷「回天」の隊員は港で出撃準備をしていたが、敵が現れないまま終戦を迎えたという。
生き残った人は戦後、医大の学長、建築家、弁護士などさまざまな道に進んで活躍した。「みんな優秀な人ばかり。亡くなった人の分も懸命に生きているように思う」
戦後も交流続く
倶楽部を縁とした交流は戦後も続いた。全国から感謝をつづる手紙や写真が送られ、結婚して家族で訪れる人もいた。分隊の同窓会も大久保宅でたびたび開かれ、感謝状も贈られた。「全国に大切な家族ができたよう。悲しみも喜びも、今では大切な思い出」と笑顔をのぞかせる。
多くの若い命との別れを体験した大久保さん。自らも空襲で命の危険にさらされ、通っていた女学校は全焼した。「今の若い人たちには、こんな悲劇は経験してほしくない」と願う。(楠信一)
(2025年6月8日朝刊掲載)