被爆者団体 草創期の資料 埼玉の丸木美術館で発見 1950年代の書簡類 330通保管
25年6月7日
丸木位里・俊夫妻が描いた「原爆の図」を所蔵・展示する埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館で、主に1950年代に関係者が丸木夫妻に宛てた大量の書簡類が見つかった。日本被団協に先立つ被爆者団体の萌芽(ほうが)である「原爆被害者の会」(52年8月発足)の希少な資料も含まれており、専門家も注目する。(道面雅量)
現在、同美術館の一部となっている丸木夫妻の書斎兼アトリエの押し入れで4月、かばんに詰まった状態で見つかった。戦後、52年秋まで夫妻が住んだ神奈川県藤沢市や、転居した東京都練馬区の住所宛てで、はがきと封書を合わせて約330通。50年代に全国巡回した「原爆の図」展の各地でのチラシ類と一緒に保存されていた。
書簡からは、被爆地広島の文化人との交流ぶりが浮かび上がる。詩人の峠三吉は持病の療養経過などを報告し、歌人の深川宗俊は自著への挿絵を依頼。「原爆の図」の展示会場となった原爆ドーム(広島市中区)そばの「五流荘」を運営した梶尾家からの年賀状もある。後に絵本作家として知られるいわさきちひろ、版画家の上野誠たち美術家からの書簡も多い。
特に注目されるのは、「原爆被害者の会」名義で川手健(60年に29歳で死去)が52年秋に送った3通の書簡。中心メンバーだった当時広島大生の川手が、会を支える「東京協力会」の組織化に奔走した時期で、在京文化人との会合の設定などを事細かに依頼している。会の機関紙第1号「ヒロシマ通信」も、在京の被爆者からの書簡に同封されて見つかった。
川手関連の資料をまとまって保管する広島大文書館(東広島市)の石田雅春准教授は「原爆被害者が組織づくりへ動き出す時期の貴重な資料。当館が所蔵する川手の日記などと照合していけば、キーパーソンの動きが具体的にたどれるはず」と注目する。
丸木美術館の岡村幸宣(ゆきのり)学芸員は「被爆80年の節目に見つかったことに意味を感じる」と話す。書簡の一部や「ヒロシマ通信」の現物は、廿日市市のはつかいち美術ギャラリーで7月27日~8月17日に開かれる平和美術展で「原爆の図」2点(第1部と第4部)と共に展示される。
原爆の図丸木美術館で見つかった「ヒロシマ通信」は1952年8月10日、広島市で発足した「原爆被害者の会」の最初の機関紙だ。発行所は「広島市細工町原爆ドーム裏 吉川記念品店内」とある。「原爆一号」と呼ばれた被爆者吉川清さん(86年、74歳で死去)が営んだ土産物店で、吉川さんは峠三吉たちと並んで会創立時の幹事5人の一人だった。
B5判12ページのガリ版刷りで、52年12月20日の発行。「会をもっと大きな被害者全部の組織にしたい。その力で市にいろいろのことを要求したり、政府にも言ったりする。そうしなければ駄目です(50歳男性)」―。12月14日の第1回総会で出た12人の発言抄録のほか、発足以来の歩みを記す。
活動の現状として、会員宅への訪問調査や原爆手記の募集、世界連邦アジア会議広島大会(52年11月)への英文アピール発出、「ウィーン平和大会」への代表派遣の模索(実現せず)、東京協力会の組織化、図書室の開設が報告されている。
被爆関係資料に詳しい宇吹暁(さとる)・元広島女学院大教授は「実物が残っていたことに驚いた。早い時期から運動が全国化、世界化を目指していたことが改めて分かる一級資料」と話す。
会の機関紙は翌53年4月、発行所を変えて「芽生え」に改名した上で第1号が出た。その7号までの一部や号外は、広島大文書館に所蔵されている。 (道面雅量)
(2025年6月7日朝刊掲載)
現在、同美術館の一部となっている丸木夫妻の書斎兼アトリエの押し入れで4月、かばんに詰まった状態で見つかった。戦後、52年秋まで夫妻が住んだ神奈川県藤沢市や、転居した東京都練馬区の住所宛てで、はがきと封書を合わせて約330通。50年代に全国巡回した「原爆の図」展の各地でのチラシ類と一緒に保存されていた。
書簡からは、被爆地広島の文化人との交流ぶりが浮かび上がる。詩人の峠三吉は持病の療養経過などを報告し、歌人の深川宗俊は自著への挿絵を依頼。「原爆の図」の展示会場となった原爆ドーム(広島市中区)そばの「五流荘」を運営した梶尾家からの年賀状もある。後に絵本作家として知られるいわさきちひろ、版画家の上野誠たち美術家からの書簡も多い。
特に注目されるのは、「原爆被害者の会」名義で川手健(60年に29歳で死去)が52年秋に送った3通の書簡。中心メンバーだった当時広島大生の川手が、会を支える「東京協力会」の組織化に奔走した時期で、在京文化人との会合の設定などを事細かに依頼している。会の機関紙第1号「ヒロシマ通信」も、在京の被爆者からの書簡に同封されて見つかった。
川手関連の資料をまとまって保管する広島大文書館(東広島市)の石田雅春准教授は「原爆被害者が組織づくりへ動き出す時期の貴重な資料。当館が所蔵する川手の日記などと照合していけば、キーパーソンの動きが具体的にたどれるはず」と注目する。
丸木美術館の岡村幸宣(ゆきのり)学芸員は「被爆80年の節目に見つかったことに意味を感じる」と話す。書簡の一部や「ヒロシマ通信」の現物は、廿日市市のはつかいち美術ギャラリーで7月27日~8月17日に開かれる平和美術展で「原爆の図」2点(第1部と第4部)と共に展示される。
「ヒロシマ通信」の実物も
原爆の図丸木美術館で見つかった「ヒロシマ通信」は1952年8月10日、広島市で発足した「原爆被害者の会」の最初の機関紙だ。発行所は「広島市細工町原爆ドーム裏 吉川記念品店内」とある。「原爆一号」と呼ばれた被爆者吉川清さん(86年、74歳で死去)が営んだ土産物店で、吉川さんは峠三吉たちと並んで会創立時の幹事5人の一人だった。
B5判12ページのガリ版刷りで、52年12月20日の発行。「会をもっと大きな被害者全部の組織にしたい。その力で市にいろいろのことを要求したり、政府にも言ったりする。そうしなければ駄目です(50歳男性)」―。12月14日の第1回総会で出た12人の発言抄録のほか、発足以来の歩みを記す。
活動の現状として、会員宅への訪問調査や原爆手記の募集、世界連邦アジア会議広島大会(52年11月)への英文アピール発出、「ウィーン平和大会」への代表派遣の模索(実現せず)、東京協力会の組織化、図書室の開設が報告されている。
被爆関係資料に詳しい宇吹暁(さとる)・元広島女学院大教授は「実物が残っていたことに驚いた。早い時期から運動が全国化、世界化を目指していたことが改めて分かる一級資料」と話す。
会の機関紙は翌53年4月、発行所を変えて「芽生え」に改名した上で第1号が出た。その7号までの一部や号外は、広島大文書館に所蔵されている。 (道面雅量)
(2025年6月7日朝刊掲載)