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[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 友田典弘さん(中編) 韓国で路上生活 再び戦禍に

 「ついて行っただけ。朝鮮がどこかさえ知らんかったよ」。友田典弘(つねひろ)さん(89)=大阪府門真市=は明かす。1945年8月6日、広島市の爆心地から南東460メートルで被爆。孤児となり、翌9月に知人男性と海を渡った。そこは日本が植民地支配していた地。波乱の日々が待ち受けていた。

 最初に頼ったのは、ソウルに住む男性の兄一家。言葉が分からずとも、男性が責められているのは分かった。「なぜ日本人なんかを、とね」。しばらくは隠れるように暮らした。金烔進(キム・ヒョンジニ)と名付けられたが、近所の子どもにさえ「すぐ、日本人とばれたよ」。

 2年ほど後に男性が結婚し、友田さんも連れて家を出てくれた時は心底うれしかった。が、夫婦の間に赤ちゃんが生まれると、今度は男性の妻の当たりが強くなり、友田さんはついに家を飛び出す。「13歳くらいだったね」。ソウルには路上で暮らす子どもが多かった。彼らに倣い、食堂の水くみや掃除を買って出て余り物にありついた。

 広島にいた頃から、いじめっ子とのけんかなら自ら買ったという友田さん。縄張り争いにも「負けんかった」。ただ冬の厳しさには閉口した。路上生活1年目、真っ黒に変色した右足の薬指と小指の先端を失った。「痛くはなかったがね。脚がコチコチになって」。冬場は木の棒にすがって歩いた。  さらに死を覚悟させられる事態が起きた。50年6月、朝鮮戦争が始まる。

 この頃、ソウルを流れる漢江の橋のたもとを根城にしていた友田さん。ある夜、ごう音で飛び起きた。北朝鮮軍の侵攻を食い止めようと、韓国軍が橋を爆破したのだ。翌朝、川向こうに北朝鮮軍の戦車も見た。

 戦闘はすぐに本格化した。夜間は弾道が赤い線を引いた。砲弾が目の前の川に着弾し、巨大な水柱が立ったこともある。北朝鮮軍が勢いを増してくると、友田さんも人波を追い、南方に逃げた。道中、村人や兵士の遺体を見た。操縦士が見えるほど、戦闘機が急降下してきたこともあった。

 それでも友田少年はたくましかった。ソウルに戻ったあるとき、北朝鮮軍のテントをのぞき、「ご飯ちょうだい」と声をかけた。米とサケを振る舞われ、「北に来ないか」「学校に行かせてやる」と誘われたという。「『口がうまいからだまされたらあかん』と聞いとってね。親を捜さなあかんから、と断った」

 忘れられない夜がある。空き家で寝ていると、被爆死した母が夢枕に立った。「日本に連れて帰る、言うたよ」。この夢を心の支えに、友田さんは3年余り続いた朝鮮戦争を生き抜く。53年7月の休戦を迎えた時には、17歳になっていた。(編集委員・田中美千子)

(2025年6月12日朝刊掲載)

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