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[ヒロシマドキュメント 1946年] 6月 ハーシーさん惨状取材

 1946年6月。米誌「ニューヨーカー」の記者ジョン・ハーシーさん(93年に78歳で死去)が、広島市内で原爆被害者を取材していた。占領下で報道が制約される中、生の声を聞き、惨状をいち早く世界へ伝えるためだった。

 ハーシーさんは約2週間滞在し、ドイツ出身のウィルヘルム・クラインゾルゲ神父を案内役にした。広島流川教会(現中区)の谷本清牧師には、科学的な被害調査ではなく、人道主義の立場から被害を知りたいと伝えた。この2人を含む6人から被爆前後の状況や生活の様子を聞き取った。

 取材に対し、広島赤十字病院(現中区)の佐々木輝文医師は次々と押し寄せる患者に「手慣れた外科医らしい手当てはもうできなくなった」と振り返った。爆心地から約1・2キロの幟町(同)で子ども3人と被爆した中村初代さんは、吐き気や脱毛などの症状に襲われたと証言した。

 一連のルポは8月31日号のニューヨーカーを丸ごと使って掲載した。当初4回に分けて連載する予定だったが、途中で妨害されるのを恐れ、他の記事を取り払って1冊に収録。1日で30万部を売り切ったという。谷本さんが翻訳に携わり、49年には「ヒロシマ」の題で日本でも出版される。

 作中で「一つになる赤ん坊」と紹介されているのは、谷本さんの長女の近藤紘子さん(80)=中区。教会近くで母に抱かれていて被爆した。ルポを「核兵器を使ったらどうなるかを世に伝えてくれた」と受け止める。60年代に自身が米国の大学に通っていた時も、街中で人々が読んでいたのを見た。

 ハーシーさんは85年4月に再び広島を訪れて取材し、「ヒロシマその後」を書く。市内での記者会見では「非常な苦痛をこうむった被爆者がその体験を記憶し、継承していること自体、その後の世界を核戦争の大惨事から守ってきた」(4月24日付本紙)と強調。著書がその苦痛を想像する手助けになるよう願った。(山本真帆)

(2025年6月12日朝刊掲載)

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